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初期仏教について語ろう! - サライ

2010/10/02 (Sat) 14:55:03

新しいスレッドをどうしようかと考えていましたが、こうなりました。

いくつか理由を述べておきます。

私の所属教会の前教会長は仏教にとても詳しく、「お坊さん」といっても通るほどの人物でした。その時から色々教えていただいて、「仏教ってスゲーナ!!」と言う印象を持っており、チョコチョコ勉強していました。

数年前、アメリカの牧師達を日本に招いて神社仏閣で平和メッセージの訓読大会が全国で行われました。
私の教区では食口になった、お坊さん(もちろん祝福家庭)がいるのでその人のお寺で大会がなされました。

この時、会場のセッティングや録画の準備の担当になり、ずいぶん苦労しましたが、「いよいよ宗教統一の序章が始まった!」とわくわくしたのを覚えています。
本殿のご本尊の仏像の前で、白人の牧師が文先生の講演文を通訳付きで代読し、その隣で丸坊主の袈裟を着た坊さんが挨拶をするという違和感だらけの大会でした。
私は80近い母を連れて参加しましましたが、唖然としていました。何が起こっているか理解不能ですね。

この時感じたのが私の仏教に対する無知です。

統一教会がいざ、伝道!と言った時に、日本で立ちはだかる宗教が正に仏教であり、特に、浄土真宗系と日蓮宗系はさけて通れないと思います。個々の宗派の勉強をしてもきりがなく結局わけが解らなくなるというのが率直な感想です。
しかしよく知らなければ、独りよがりの独善的な強要にしかならないので、この機会にまた勉強してみようと思いました。

この掲示板に、こういうスレッドがふさわしいか疑問ですが、古株のチェ・サンウさんが最初に登場させ、たびたび登場するこの「初期仏教」に関心を持ちました。
キリスト教も原始キリスト教なるものがあり、原点から探っていくのが妥当ではないかと考えます。

また、一つの宗教を信じる信仰歴という観点では、私やENOCKさんにアドバンテージがあると思うので、あえて原理ではなく仏教という土俵のほうがフェアーではないかと思いました。

まずは

アルボムッレ・スマナサーラ著:(お釈迦様が教えたことシリーズ)

を読まなければなりませんが、全て購入する経済的余裕がありません。徐々に読んで行きたいと思います。
しかし、このスレッドに参加する人にこのシリーズを読むようにお願いするのも現実的でないのでチェ・サンウさんがリードしていただければ参加しやすいと思います。

今提案できることは、Web上のサイトの記述をどのように見るか意見交換していくことかなと思います。

例えば
http://homepage2.nifty.com/ych_ysd/page04.htm

http://www.tennoji-h.oku.ed.jp/tennoji/syakai/rinnri/kouza.htm#b

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/es003/buddhism.html



しかし、仏教の教えは「さっする」という世界観が強く、例えば「拈華微笑」の以心伝心のような世界は、キリスト教(西洋的)にはなじまない。しかし日本の風土では当然とみなされます。私のように原理やキリスト教の世界観に長く浸かっていると、「結局何が言いたいの!」といらいらしてくる自分を発見するのは事実です。

もう少し枠組みや線引きが必要だと思いますが、最初から見通すことはできないので、成り行きに任せます。

よろしかったら参加下さい。



Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/04 (Mon) 01:02:38

サライさん

>新しいスレッドをどうしようかと考えていましたが、こうなりました。

O.Kです。でも、僕は初期仏教のことは分かっていません。元食口北上の言葉を借りるなら、初期仏教不理解です。リードできるほどではありませんが、自分の勉強も兼ねて参加します。

それと、質問ですが、サライさんとENOCKさんは、真理の探究をしていて、たまたま、真理と感じさせたのが統一原理だったから、統一原理を信じていると理解していいですか?

>今提案できることは、Web上のサイトの記述をどのように見るか意見交換していくことかなと思います。

ちょっと、今日は眠いので、こちらのコメントは待ってください。

Re: 初期仏教について語ろう! - 北上哲

2010/10/04 (Mon) 22:22:19

サライさん

>新しいスレッドをどうしようかと考えていましたが、こうなりました。

食口でありながら、仏教を学ぶということはどういうことですか?統一原理こそ真理です。サイトを見ましたが、これは人間が堕落したからです。やはり、分派活動で、このサイトに集まる食口を勧誘するのですか?いいですよ。やってください。でも、僕がそんなことはさせません。例え食口がサライさんに傾いても、僕が説得します。

>私の所属教会の前教会長は仏教にとても詳しく、「お坊さん」といっても通るほどの人物でした。その時から色々教えていただいて、「仏教ってスゲーナ!!」と言う印象を持っており、チョコチョコ勉強していました。

僕も離れていた時、統一原理の一部ということで、浄土真宗親鸞会で仏教を学んでいました。でも、統一教会に復帰すれば仏教なんて、統一原理に比べて取るに足らないです。

>アルボムッレ・スマナサーラ著:(お釈迦様が教えたことシリーズ)
を読まなければなりませんが、全て購入する経済的余裕がありません。徐々に読んで行きたいと思います。
しかし、このスレッドに参加する人にこのシリーズを読むようにお願いするのも現実的でないのでチェ・サンウさんがリードしていただければ参加しやすいと思います。

何非原理のサタンに主管されようとしているのですか?そんなサライさんは信仰が足りません。

>この掲示板に、こういうスレッドがふさわしいか疑問ですが、古株のチェ・サンウさんが最初に登場させ、たびたび登場するこの「初期仏教」に関心を持ちました。
キリスト教も原始キリスト教なるものがあり、原点から探っていくのが妥当ではないかと考えます。

別にかまわないです。逆にその方が、統一原理の真実性が際立ちます。どんどんやってください。

>今提案できることは、Web上のサイトの記述をどのように見るか意見交換していくことかなと思います。

これは人間が堕落したからです。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/10/05 (Tue) 07:29:23

チェ・サンウさん

>それと、質問ですが、サライさんとENOCKさんは、真理の探究をしていて、たまたま、真理と感じさせたのが統一原理だったから、統一原理を信じていると理解していいですか?

ENOCKさんのことはわかりませんが、私はそうです。
運命的出会いだと思います。



北上哲さん

>食口でありながら、仏教を学ぶということはどういうことですか?
仏教人との対話のためです、頭から仏教は間違っていると言うほど簡単なものではありません、奥深さ、懐深さはすごいものです。亨進様は、ダライラマとも会見したりして積極的に僧侶との対話もされているではないですか?

私は、浄土真宗については勉強しましたが、日蓮宗になると、かなりまた違ってきて迷路にはまり込みました。
たぶんカトリックを勉強していて、浅い理解のうちにプロテスタントの勉強を始めるようなものではないかと思います。
統一教会においても、分派と言うのがすでに存在していると言うことは、統一教会も例外なくその道を行き始めているということであり、かなり問題です。

このBBSに来るまで「初期仏教」と言う言葉はしりませんでしたが、これを学ぶことはとても意義深いことだと思います。


>何非原理のサタンに主管されようとしているのですか?そんなサライさんは信仰が足りません。


食口といえども病気になって病院に行けば、非原理のお医者さんに診てもらい、言うことを聞かなければ病気は直りません。

我々は分離主義ではなく統一主義です。一つにならなければなりません。


またチェ・サンウさんと、出会ったことも縁だと思います。
意味があるはずです。

Re: 初期仏教について語ろう! - ENOCK URL

2010/10/05 (Tue) 09:46:48

チェ・サンウさん

返事が遅くなってすみません。
>サライさんとENOCKさんは、真理の探究をしていて、たま
>たま、真理と感じさせたのが統一原理だったから、統一原
>理を信じていると理解していいですか?

サライさん同様、私もそうです。
全ての宗教や真理と言われるものを比較検討し尽したわけではないので、あくまで私の知りうる範囲での真理であり、条件付の「真理」です。
(私が言えるのはそこまでであり、真理だとも真理ではないとも断言できないというニュアンスです)

学生時代はキリスト教プロテスタントの福音派の教会にも通い(当時のアベルには反対もされましたが)聖書を学んだり、クリスチャンのホームパーティにも招待されました。

現場のクリスチャンに触れた経験から分かったことは、彼らは「真理」よりも癒しや感動といった「聖霊体験」を基点として信仰をしており、非常に愛に満ちた素晴らしいコミュニティを形成しているということです。

本来は統一教会においてもこれが当然の土台としてあるべきだったんだなあと口惜しく感じ、また多くのことを学ばせてもらいました。

新興宗教系では当時話題になった福永法源の「法の華」にも話を聞きに行きましたし、サイエントロジーも学びました。

あとは、キリスト教の異端といわれるグループでは、モルモン教とセブンスデーアドベンティストの青年とは交流を持ち、教義云々ではなく一緒にボランティア活動にいそしみました。

結局私にとって、真理かどうかはもちろん重要なのですが、明らかな優劣がつけられるケースでなければ「どちらでもよい」とも思っています。

以下は私のHPでも紹介している内村鑑三の言葉ですが
「宗教を異にする者と共に宗教を語るは、誤解、分争を招くのおそれ多し。かかる場合においては、宗教を語るをやめて、慈善、公益、労働を談ずべきなり。善行の比較するすべなき宗教は、取るに足らざる宗教なり。教義のほか、他に討議すべきことなき信仰は偽りの信仰なり。
宗論者に向かっては、われらにただ使徒ヤコブの言葉あるのみ。すなわちなんじの信仰をわれに示せ。われはわが行いに依りて、わが信仰を汝に示さんと。」

結局は、それを信じた結果、どのような行動となって表れるのか、社会にとって、人類にとってどのような良い結果が得られるのかということが重要なのであって、自由と平和と統一と幸福が同時に実現できるような方向性でなくしては「真理」としての価値を持たないと考えます。

私が統一原理の信じ方、理解の仕方において、何が正しくて、何が間違っているのかを判断する際も、「アベルが」ではなく上記の視点から判断し、祈り、聖典(説教集)から根拠を探し確信に至っています。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/05 (Tue) 22:16:36

サライさん、ENOCKさん

>今提案できることは、Web上のサイトの記述をどのように見るか意見交換していくことかなと思います。

サイトの内容は、取るに足らないです。でも、そう思っているから苦しんでいるのです。身にしみて理解できるようになりたいです。

>疑念、恐怖、逃避、隠蔽、迷妄、怠惰、性欲、食欲、物欲、愛欲(情欲)、暴力欲、嫌悪、慢心、卑屈、闘争心、嫉妬心、権力欲、創造欲などの様々な汚れ(煩悩)に気付き、理解して取り除いていかなければならない。

この記述は、特に取るに足らないです。部分的にはありますが、本当は、自分にこんな心はこれっぽちもないとも思っています。自分の心の悪にさえ気づけないのです。

>ひとつの教え(理論・宗派)に対して固執してはいけない。ひとつの教え(持論)に固執するがゆえに他者(他論)との間に対立や争いが生じる。教えは多様であってひとつの教えに固執しているということはその様々な要素の一部分しかとらえていないということにすぎない。ある人にとって役立つ教えはある人にとっては役立たない。人が多様であるように教えもまた多様なのである。
>一切の教えに対して固執してはいけない。宗教的見解、宗教的実践に対してすら固執してはいけない。執着しないがゆえに一切のとらわれからはなれて安らぎを得、涅槃(ニルヴァーナ)に完成(寂静)に到るのである。

確かにそうですね。僕も初期仏教だけにこだわるつもりはありません。多分、北上君は統一原理だけにこだわっていると思いますが、サライさんとENOCKさんは統一原理だけでなく、他の思想でもいいと思うものも取り入れているのですよね?

僕は、初期仏教、初期仏教と言っていますが、宗教全般について書いてある本も読んでます。一番、初期仏教が真理と感じたのは、多分、学生の時に真流一の会という浄土真宗親鸞会の分派に洗脳されかけたことが影響していると思います。あの時は、真流一の会に入らないと死んだら地獄へ行くと思って、必死に情報を集めました。

「宗教とは何ぞや?」から、僕の探究は始まったわけですが、宗教は、「一神教型」、「多神教型」、「無神教型」とカテゴリーに分けられるみたいです。NHKブックス出版の町田宗鳳著、「人類は宗教に勝てるか」にそのようなことが書いてありました。

一神教型の宗教とは、絶対者として神様が存在する宗教で、例えば、キリスト教やイスラム教がこれに属しています。統一原理も、一神教型ですよね?

多神教型とは、ただ一人の絶対者としてではなく、何人も神様が存在する宗教です。例えば、神道は多神教型の宗教です。日本の仏教も、多神教型のような気がしています。

無神教型の宗教は、無神論のことを言うのではなく、神様と一体化した状態を推奨する宗教で、自分の外に神様を求めるのではなく、自分の中にいるのです。

この本の著者は、平和の為に無神教型を推奨しています。

これは一部なのですが、真理を追究するならば、ENOCKさんの言うとおり、一つ一つの宗教を調べていては、時間が足りないです。だから、宗教全般について書いてある本から、真理を探究するのも1つの手だと思います。

Re: 初期仏教について語ろう! - 北上哲

2010/10/05 (Tue) 22:52:50

サライさん

>このBBSに来るまで「初期仏教」と言う言葉はしりませんでしたが、これを学ぶことはとても意義深いことだと思います。

僕は初期仏教ではありませんが、離れている間に浄土真宗を学びました。それは、浄土真宗も統一原理の一部だと思ったからです。仏教なんて、離れた食口が真理の一部として、再復帰の準備の為に学べばいいです。

ENOCKさん

>学生時代はキリスト教プロテスタントの福音派の教会にも通い(当時のアベルには反対もされましたが)聖書を学んだり、クリスチャンのホームパーティにも招待されました。

アベルが反対するのは当然です。

>新興宗教系では当時話題になった福永法源の「法の華」にも話を聞きに行きましたし、サイエントロジーも学びました。
>あとは、キリスト教の異端といわれるグループでは、モルモン教とセブンスデーアドベンティストの青年とは交流を持ち、教義云々ではなく一緒にボランティア活動にいそしみました。
>結局私にとって、真理かどうかはもちろん重要なのですが、明らかな優劣がつけられるケースでなければ「どちらでもよい」とも思っています。

これで、ENOCKさんが信仰が足りない理由が分かりました。

>以下は私のHPでも紹介している内村鑑三の言葉ですが

ここは、お父様のみ言を出すべきです。お父様のみ言を出さないENOCKさんは、信仰が足りません。お父様を不信しています。

>私が統一原理の信じ方、理解の仕方において、何が正しくて、何が間違っているのかを判断する際も、「アベルが」ではなく上記の視点から判断し、祈り、聖典(説教集)から根拠を探し確信に至っています。

原理講論のこの箇所をよく読んでください。

「このような過去の事実から推察して、ハムはたとえノアが裸になって寝ているのを自分では善くないことだと思ったとしても、(かつての箱舟の建造の場合のように、ここには何か深い訳があるのだということを賢明に悟って、分からずとも)あくまでそれを善いこととして見なければならなかったのである。しかしハムは、自己を中心として(自己の基準で)天の側に立っているノアを批判し、またそのことを行動に表したので、神がアダムから一六〇〇年も待って、四十日洪水審判を行使して立てられたノアの家庭を中心とする摂理は、結局成し遂げられなかったのである。」

ハムは、何が正しくて、何が間違っているのかを、自分で判断したため、そこにサタンが入ったのです。アベルの言うことは、自分では正しくないと思っても、正しいとみなければいけないのです。

チェ・サンウさん

サライさんとENOCKさんは信仰が足りないから、チェ・サンウさんのターゲットかもしれませんが、サタンがいかに2人を唆そうと、2人を非原理世界に落とすようなことはさせません。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/10/06 (Wed) 05:25:26

チェ・サンウさん

>無神教型の宗教は、無神論のことを言うのではなく、神様と一体化した状態を推奨する宗教で、自分の外に神様を求めるのではなく、自分の中にいるのです。

統一原理は、一神教を継承しながらも、この無神教型に近いと思います。
また、愛と言う観点では、家庭の家族関係の中に現れる神様です。

私が、思う統一原理の際立った特徴は「家庭」という切り口からの教えだと言うことです。

家庭に主題をおいて説く宗教を知りません、何かご存知ですか?


>宗教全般について書いてある本から、真理を探究するのも1つの手だと思います。

それもいいですね。


チェ・サンウさんは心理学を勉強されたのですか?

宗教は結局「人間とは何か」という問いかけから始まるように思いますが。深層心理とか、潜在意識とか、最近良く見かける「真我」とか「レイキ」とか自己啓発的観点からのアプローチもあっていいのかなと思っています。


詳しい方がおられたら参加下さい。



ENOCKさん

もっと細かい証が聞きたいですね・・それぞれの特徴


端的に言って、今のUCはその実践においては、共産党にさえ負けていると思っています。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/06 (Wed) 22:09:14

サライさん

>統一原理は、一神教を継承しながらも、この無神教型に近いと思います。
また、愛と言う観点では、家庭の家族関係の中に現れる神様です。
私が、思う統一原理の際立った特徴は「家庭」という切り口からの教えだと言うことです。
家庭に主題をおいて説く宗教を知りません、何かご存知ですか?

これは、ENOCKさん向けのコメントでもありますが、家庭に主題をおいた宗教は知りません。でも、ダイレクトに家庭に主題をおかなくても、その宗教の要素を組み合わせれば、必然と家庭の家族関係につながる教えはあると思います。

例えば、初期仏教も浄土真宗も、家庭の家族関係はそれほど主張していませんが、そこにつながると思います。

>統一原理は、一神教を継承しながらも、この無神教型に近いと思います。
また、愛と言う観点では、家庭の家族関係の中に現れる神様です。

無神教型の宗教では、神様の像を崇拝することはしません。統一協会も、文鮮明氏の写真を拝むそうですね。こんな偶像崇拝まがいのことはやめて、無神教型になれば、信者の意識が変わって霊感商法や強引な勧誘といった問題も起こさなくなるかもしれません。

>>宗教全般について書いてある本から、真理を探究するのも1つの手だと思います。
>それもいいですね。

あくまで、これは僕の真理探究のスタイルですが、一神教型、多神教型、無神教型の宗教には、一長一短があります。まず、自分が信じている宗教が何型なのかを抑えて、その宗教の一長一短を抑えるのがいいと思います。現在の統一原理が何型なのか、そして一長一短は何かと。多分、腰抜けサタン:北上ブラザーズは、「統一原理に短所はない!」と言うと思いますが、統一原理にも短所はあります。多分、サライさんは分かっていると思いますが、統一協会は霊感商法等の問題を起こすから、反対する人から、その短所を突かれてきたはずです。サライさんとENOCKさんが信じている点が一長で、反対する人から突かれてきた点が一短です。

>チェ・サンウさんは心理学を勉強されたのですか?

もともと、教科の教育学を専攻していましたが、そこから教育心理学に興味を持ちました。さらに、カルトのマインドコントロールにも。僕が見た限り、腰抜けサタン:北上ブラザーズは、マインドコントロールにかかっていると思いますが、サライさんとENOCKさんは、自分がはっきりしていてマインドコントロールされているようには見えません。だから、信者がサライさんとENOCKさんの精神を受け継げば、「統一協会はマインドコントロールしている」と言われなくなるかもしれません。

>宗教は結局「人間とは何か」という問いかけから始まるように思いますが。深層心理とか、潜在意識とか、最近良く見かける「真我」とか「レイキ」とか自己啓発的観点からのアプローチもあっていいのかなと思っています。
詳しい方がおられたら参加下さい。

なにやら、フロイトの深層心理に通ずるものがありそうですね。でも、僕は特に学校の授業の心理についてやっているので、深層心理、潜在意識についてはそれほど詳しくはないです。

Re: 初期仏教について語ろう! - ENOCK URL

2010/10/06 (Wed) 23:49:13

チェ・サンウさん

>確かにそうですね。僕も初期仏教だけにこだわるつもりはありません>。多分、北上君は統一原理だけにこだわっていると思いますが、サラ>イさんとENOCKさんは統一原理だけでなく、他の思想でもいいと思う
>ものも取り入れているのですよね?

そうですね。
良いものは良いものとして受け入れるようにしています。


>無神教型の宗教は、無神論のことを言うのではなく、神様と一体化し>た状態を推奨する宗教で、自分の外に神様を求めるのではなく、自分>の中にいるのです。

>この本の著者は、平和の為に無神教型を推奨しています。

私も無神教型を推奨します。

神様は無形で時空を超越した存在であるがゆえに、自分の中にも他人の中にも自然の中にも、あまねく臨在する。と解すれば、一神教と多神教と無新教は融合しうると思うのです。

サライさんも
>統一原理は、一神教を継承しながらも、この無神教型に近いと思いま>す。

このように仰っています。

結局どの宗教にも
人生(人間)の目的や、創造の目的についての教えがあって、
「理想状態」をそれぞれの宗教で定義しています。

例えば法の華は「人間は喜びの表現体である」として、「最高ですか!」という挨拶を内部で使用していました。人間は最高の喜びを感じて生きるように創られているにも関わらず、「アタマ」がその喜びを感じる心を阻害しているので、般若天経(般若心経のようなお経)を無心に唱えたり写経をすることを通して天行力を100%受けることができるようになる・・・とまあそんな教えでした。
これも強引な勧誘や無茶な「アタマをとる」修行や高額な献金がなければ悪くはないところでした。

キリスト教の諸派では概ね、イエス様が私の身代わりに十字架に架かって死んで下さったので、私はもはやサタンの子ではなくイエス様によって贖われた主の子羊であり、主の御心のままに主に命じられるままに私が愛されたように私の隣人を愛することを誓います、私が主に赦されたように、私も人を許しますという内容が信仰の核心部分だと思います。

いずれにしても、教えそのものは悪くなくても、人が集まり、教団ができ、教団の内部に「生活」がかかった人=聖職者 が増えてくると「守り」に入り、あるいは当初の理想からずれて行く傾向が見られます。

だから私は専従者の居ない、あるいは極力少ない体制=家庭協会・家庭連合 の形態こそが本来の理想だと思っています。 →つまり現状の統一教会ではありません。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/10/07 (Thu) 08:01:59

ENOCKさん

>いずれにしても、教えそのものは悪くなくても、人が集まり、教団ができ、教団の内部に「生活」がかかった人=聖職者 が増えてくると「守り」に入り、あるいは当初の理想からずれて行く傾向が見られます。

だから私は専従者の居ない、あるいは極力少ない体制=家庭協会・家庭連合 の形態こそが本来の理想だと思っています。 →つまり現状の統一教会ではありません。


私もまったく同じ考えです。
以下のサイトご存知ですか?
http://blogs.yahoo.co.jp/hosea184/folder/112152.html
とても参考になっています。


チェ・サンウさん

ENOCKさんのコメント

>神様は無形で時空を超越した存在であるがゆえに、自分の中にも他人の中にも自然の中にも、あまねく臨在する。と解すれば、一神教と多神教と無神教は融合しうると思うのです。

このコメントに対してどうですか?初期仏教はどの分類でしょうか?

神をどのように規定するか?これも問題です。
神道は人間が浄化して神になります。



また先の
>>一切の教えに対して固執してはいけない。宗教的見解、宗教的実践に対してすら固執してはいけない。執着しないがゆえに一切のとらわれからはなれて安らぎを得、涅槃(ニルヴァーナ)に完成(寂静)に到るのである。

これなんかは、私は想像がつきません。
完成に至ればこのような境地になるのであって、それに到る禅などの実践はすでに「宗教的実践に対する固執」に入るのではないかと思います。


また
>僕は、初期仏教、初期仏教と言っていますが、宗教全般について書いてある本も読んでます。一番、初期仏教が真理と感じたのは、多分、学生の時に真流一の会という浄土真宗親鸞会の分派に洗脳されかけたことが影響していると思います。あの時は、真流一の会に入らないと死んだら地獄へ行くと思って、必死に情報を集めました。


死んだら地獄に行くと思った直接の原因はどんな内容だったのですか?
ある意味恐怖を感じたんだろうと思いますが、どんな地獄観だったんでしょうか?



Re: 初期仏教について語ろう! - 大川

2010/10/09 (Sat) 09:32:50

現役の食口です。

サライ 様

横スレで恐縮です。

現在、全国各地で日本統一教会本部主催で、食口特別集会が開催され、本部の正式な見解が、公表されています。
私も参会致しましたが、この掲示板で北上様が掲載された、

>國進様と顕進様のアベル・カインの摂理は失敗に終わったけど、亨進様がセツとして、アベルである國進様の代わりに立たれたのです。

は、完全なる間違いです。

このことからも、明確であるように、
北上様の発言は、公式的なもので無く、個人的な見解であることを御理解下さい。

法を犯す、霊感商法を肯定したこともありません。

又、霊的集団である
旧:「天宙真の父母連合」の信者(支持者)も、この掲示板で混乱をさせる投稿を行っていることも、間違いありません。

以下がその関連サイトです。

http://www.geocities.jp/daniel_king_25/main.html

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/09 (Sat) 21:19:41

ENOCKさん

>私も無神教型を推奨します。

現在の統一協会は、統一協会にしか神様はいないって言って、強引な勧誘をしているように思うのですが、どうなのでしょう?信者の自由も束縛してるように思います。

まことさんのヒロシ君宛のコメントですが、

>それに教育実習中は実家からその学校へ行くか、学舎から学校へ行くかで学舎長ともめたこともあります。僕は実家から通うつもりでいたのですが、学舎長は「君は学舎から離れたら、後輩に追い抜かれるよ」と言われました。学舎は神様に守られていて成長できるということです。

>しかし、人は試練を通して成長すると思います。試練は学舎でなくても、どこにでもあると思います。だからどこにいても成長はできます。しかし、学舎長の話し方は、成長できるかできないかは、学舎にいるかいないかによるようでした。。

どうも、まことさんの上司は、統一協会にしか神様がいないと言うような感じです。まことさんの上司は、無神教的な捉え方をしていないように思います。上司が無神教的な考え方を持っていれば、このような問題は起きなかったと思います。

サライさん

>このコメントに対してどうですか?初期仏教はどの分類でしょうか?

初期仏教は、無神教だと思います。神々が出てくるのですが、神々とは、天上界の住人で人間や動物が生まれ変わった存在です。世界を想像したり、支配しているわけではありません。あくまで、人間と同等に扱われていて、解脱するべき存在です。この辺はよく分かっていませんが。

>また先の
>>一切の教えに対して固執してはいけない。宗教的見解、宗教的実践に対してすら固執してはいけない。執着しないがゆえに一切のとらわれからはなれて安らぎを得、涅槃(ニルヴァーナ)に完成(寂静)に到るのである。
>これなんかは、私は想像がつきません。
完成に至ればこのような境地になるのであって、それに到る禅などの実践はすでに「宗教的実践に対する固執」に入るのではないかと思います。

サライさんの仰る通り、禅などは宗教的実践に対する固執になります。小泉吉宏著「ブッタとシッタカブッタシリーズ」の「ブタのふところ」に、我々は何もしなくてそのままで、既に完全であると書いてありました。これは、あるがままの自分を認めて受け入れることに通ずると思います。下手に完成人間になろうと力まずに、あるがままが初期仏教の主張です。

霊感商法も、個性完成のためにやるそうですね。個性完成のために実践をやるのも執着で、霊感商法も執着です。

>死んだら地獄に行くと思った直接の原因はどんな内容だったのですか?
ある意味恐怖を感じたんだろうと思いますが、どんな地獄観だったんでしょうか?

地獄の業火で体が焼き尽くされる地獄です。これが何万年も。無間地獄といいます。でも、何万年か経てば地獄から解放されるわけで、永遠の地獄ではありません。でも、何万年も地獄にいるのは嫌です。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/10/10 (Sun) 07:38:30


チェ・サンウさん

>これは、あるがままの自分を認めて受け入れることに通ずると思います。下手に完成人間になろうと力まずに、あるがままが初期仏教の主張です。


何の努力もなしに、涅槃(ニルヴァーナ)の境地にいけると思いますか?
釈迦の生きた時代の「苦」が「解脱」を要請したのではないでしょうか?

人生は「苦」だという主張は個人的にどう思われますか?
「人間は苦しんでいる」という共通認識があって宗教などと言ううものが出てきたというのは納得がいきますか?

これは、原理講論の総序に当たる問いかけです。
「不幸をしりぞけ幸福を求めている」
ここが、そもそも違ってくると話がかみ合わないわけです。

Re: 初期仏教について語ろう! - ENOCK URL

2010/10/10 (Sun) 22:12:10

チェ・サンウさん

>どうも、まことさんの上司は、統一協会にしか神様がいな
>いと言うような感じです。まことさんの上司は、無神教的
>な捉え方をしていないように思います。上司が無神教的な
>考え方を持っていれば、このような問題は起きなかったと
>思います。

結局のところ
①原理理解の「深さ」と
②教育力・感化力に対する自信と
③信頼関係
が足りないために、そのような問題が起こっているといえます。
事実、2世教育の現場でも同様のことが起こっています。

自分の子どもに「正しい」判断をさせる自信がないから
これはダメ、あれはダメと禁止で束縛するのです。
結果、いつまでも自律できない依存者になってしまうか、
束縛から逃げ出して縁を切ってしまうかという
不幸な二者択一に陥ってしまうケースが多いのではないかと
分析しています。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/10 (Sun) 23:06:16

サライさん

>何の努力もなしに、涅槃(ニルヴァーナ)の境地にいけると思いますか?
釈迦の生きた時代の「苦」が「解脱」を要請したのではないでしょうか?

涅槃については、特に意識したことがないので分かりません。でも、涅槃の境地を目指して努力することは、涅槃を意識しすぎる危険があって、逆にいけなくなるような気がします。特に涅槃を意識することなく、教えを実行することが大切だと思います。

>人生は「苦」だという主張は個人的にどう思われますか?

「苦」をどのように捉えるかですね。僕は「苦」を思い通りにならない苦しみと考えています。夫婦にしても、円満にしたいのに障害があって、思い通りにはなりません。だから、「人生苦なり」はその通りだと思います。

>「人間は苦しんでいる」という共通認識があって宗教などと言ううものが出てきたというのは納得がいきますか?

その通りだと思います。苦しみから解放されたくて宗教が出てきたのだと思います。仏教には「抜苦与楽(合ってるかな?)」という言葉があるように、苦しみを抜いて楽を与えます。

>これは、原理講論の総序に当たる問いかけです。
「不幸をしりぞけ幸福を求めている」
ここが、そもそも違ってくると話がかみ合わないわけです。

そうですね。ここで幸福・不幸をどのように捉えるかで議論が変わってきます。
僕は、幸福とは自分にとって都合がいい状態で、不幸を都合が悪い状態と考えています。

ENOCKさん

>結局のところ
①原理理解の「深さ」と
②教育力・感化力に対する自信と
③信頼関係
が足りないために、そのような問題が起こっているといえます。
事実、2世教育の現場でも同様のことが起こっています。

そうですね。統一協会全体で、無神教化ができればいいですね。

>自分の子どもに「正しい」判断をさせる自信がないから
これはダメ、あれはダメと禁止で束縛するのです。
結果、いつまでも自律できない依存者になってしまうか、
束縛から逃げ出して縁を切ってしまうかという
不幸な二者択一に陥ってしまうケースが多いのではないかと
分析しています。

結局信頼の無さから過保護になっているのですね。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/10/12 (Tue) 07:42:20

チェ・サンウさん

仏教では、出家信仰と在家信仰がハッキリしていて私は、
「修行」 VS 「念仏」ではないかと思っています。

「苦」から逃れるための努力(「修行」「念仏」)は必要だと思いますか?

必要だとすれば

>僕は、幸福とは自分にとって都合がいい状態で、不幸を都合が悪い状態と考えています。

チェさんは、「目標に向かって努力している状態」は、都合がいい状態ですか?悪い状態ですか?
努力は基本的に消耗することだし、精神的にも肉体的にも「つらい」状態が大半だと思いますが・・・。どちらに属するのだろうかと思いました。



原理講論には

幸福=欲望が満たされ状態

となっていますが、これに対しては異論はありますか?


初期仏教では幸福をどのように見ているのでしょうか?
一般的理解だと、どこか違う世界の極楽に行くことが彼岸であり、この世は「苦」なので成仏したら、どこか別の世界に行くことができると言うのが仏教だと思いますが。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/13 (Wed) 00:16:43

サライさん

>仏教では、出家信仰と在家信仰がハッキリしていて私は、
「修行」 VS 「念仏」ではないかと思っています。

確かにその通りです。でも、「在家=念仏」、「修行=出家}ではありません。仏教には、もともと修行をする宗派がありました。この宗派を聖道門といいます。一般に言う禅宗のことで、自力宗ともいいます。臨済宗、天台宗がこれに当たります。しかし、人間には修行ができないため、自力では救われないと悟って開かれたのが浄土門の教えです。浄土宗、浄土真宗、時宗がこれに当たります。いわゆる念仏宗です。

親鸞も、10歳くらいから比叡山の延暦寺で修業をしていました。でも、自分には修行ができないから、天台宗の教えでは救われないと悟って、比叡山を降りました。そして、浄土宗の開祖の法然と出会って師事し、開いた宗派が浄土真宗です。

>「苦」から逃れるための努力(「修行」「念仏」)は必要だと思いますか?

念仏は何とも言えませんが、修行というか精進することは必要だと思います。というより、我々は苦から逃れるために、四苦八苦しています。必然的に修行もすることになると思います。

>>僕は、幸福とは自分にとって都合がいい状態で、不幸を都合が悪い状態と考えています。
>チェさんは、「目標に向かって努力している状態」は、都合がいい状態ですか?悪い状態ですか?
努力は基本的に消耗することだし、精神的にも肉体的にも「つらい」状態が大半だと思いますが・・・。どちらに属するのだろうかと思いました。

目標に向かって努力している状態は、自分にとって都合のいい状態と悪い状態と両方あると思います。目標が自分にとって都合のいい状態で、目標に近づけば都合が良く、遠ざかれば都合が悪いです。

>原理講論には
幸福=欲望が満たされ状態
となっていますが、これに対しては異論はありますか?

幸福を自分にとって都合がいい状態とすれば、異論はありません。我々は欲望の塊で、常に自分にとって都合のいい状態にしたい欲望があります。

>初期仏教では幸福をどのように見ているのでしょうか?
一般的理解だと、どこか違う世界の極楽に行くことが彼岸であり、この世は「苦」なので成仏したら、どこか別の世界に行くことができると言うのが仏教だと思いますが。

一般理解は、死んだ後の幸福でこれは間違いです。結局、ここから、仏教が葬式に力を入れるようになって、葬式仏教と言われるのです。あのカルトの浄土真宗親鸞会と真流一の会も、浄土真宗正統派を葬式仏教と非難し、自分のところの教祖が真の浄土真宗を語れる人と吹聴しています。真流一の会では、中根繁(真流教祖)が唯一真実の仏教を語れる人として、親鸞会も高森顕徹(親鸞会教祖)のみが真実の仏教を語る人であると吹聴しています。そして、お互いに真流教祖は親鸞会教祖を親鸞会教祖は真流教祖を偽物と言い合ってます。でも、正統派も葬式仏教は否定しています。

初期仏教が、幸福をどのように見ているのかは分かりません。でも、初期仏教の本を読むと、幸福とは、自分にとって都合の良い状態のような気がしてきます。北上原理ならぬ、チェ・サンウ初期仏教ですが。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/10/30 (Sat) 16:04:48

チェ・サンウさん

少し間が空きました、すいません。お元気でしたか?


>幸福とは、自分にとって都合の良い状態

私は、この言葉はもっと簡単な意味でチェさんが使っていると思っていたのですが、けっこう深い意味があるなと感じてきました。


例えば他のスレにありましたが

フリーセックスについてです、
自分の好みの女性と次々と関係しながら性欲を満たしていくことはどうでしょうか?

肉欲を満たすことについては都合の良い状態であるけれども
純愛的愛の形(心の全てを許せる女性との精神的関係)がなければ若しくはそういうものを得られなければ、都合の良い状態とは言えないように思えます、矛盾性を内包しているように思えます。

原理的に言えば霊肉共の幸福が
精神的にも肉体的にも都合が良い状態となると思います。

また、特に男・女の関係においては、互いに愛と性を独占できる状態だとおもいますがいかがですか?

教会でよく次のように言われます。

『自分の親と同じよう目上の人達を愛しましょう
自分の子供と同じように他の家庭の子供たちも愛しましょう
自分の兄弟と同じように友達・人類を愛しましょう

とはいいますが

自分の妻と同じように回りの女性達を愛しましょう

とはいえませんね

性の問題がそこにあるからであり男女の愛に絶対性が内包されているからです。

博愛と質が違います。』


と言う、わらい話です


男女の愛と性の欲望が満たされることに言及しない幸福論は骨なしだと思っています。



葬式仏教は神仏習合の結果だと私は思っています。
歴史的に仏教は中華思想を背景とした儒教の影響を受け日本に仏教が伝来するまでに様変わりしたと多くの本にあります。

最近よく無宗教だといって葬式はせずに骨は墓にではなく散骨して海や山に撒くという弔いの話を聞きますが、この方がよっぽど仏教的だと思います。
初期仏教では弔いはどのようにするのでしょうか?
インドではガンジス川に火葬した遺骸を流すのを見ました仏教徒かヒンズー教徒かわかりませんでしたが。


Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/30 (Sat) 23:52:24

サライさん

>少し間が空きました、すいません。お元気でしたか?

元気です。信者でも真理を追究しようとしている人との議論は良いです。最近、大川君が書き込むようになったけど、北上君のようなことを言っています。なんか質問があるならしてくれといいながら、いざしたら僕は礼儀知らずとか言って無視です。しかも、HNを2回も間違えて、どっちが失礼なのでしょう?なんか、わざとらしく思います。

>チャ・サンウン 様
大変、子供じみた挑発的発言はご遠慮下さい。
私を「君」と呼ぶということは、年上かと想像しますが、
質問があるならば、しっかりとして下さい。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3267669

>チェ・サウン
礼儀知らずのあなたと議論する意味は無いようだ。
もう少し社会経験を積みたまえ。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3276004

北上君は統一原理が真理であることを示したつもりらしいけど、大川君に言わせれば北上原理は間違いで、大川君が示すらしいです。

北上:僕が示したのが間違いなら、大川さんが示しているところが見たいです。
大川:OK!

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3264885

大川哲ですね。それに、大川君は半月後に統一原理が事実であることを示すそうです。統一原理を信じると、パラノイアになるらしいです。韓定食さんも北上君のようなパラノイア状態の信者をネットでよく見かけると言っていました。

>北上さんのようなパラノイア状態の食口はネット上で散見されます。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3214705

大川君がそのパラノイア状態の信者のように思います。統一原理を信じるとパラノイアになるのですね。統一原理はデタラメだから、・・・。

・・・って、サライさんとENOCKさんに原理批判をするならば、統一原理より説得力のある教えを示すべきですよね。それに、統一原理は劇薬ですよね。だから、大川哲君は毒に触れてしまったと。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3267669

今まで、統一原理を超える教えも示さずに、やみくもに「統一原理はデタラメだ!」と言ってすみませんでした。ENOCKさんもすみませんでした。

統一原理を超える教えの候補を示すつもりで、「フリーセックスと生命の尊重」のスレを立てました。大川君が返答したら、そこから代案を示すつもりだったのに、半月この掲示板には書き込まないそうです。半月も待てないので、候補を示します。それは仏教かキリスト教正当派です。

「フリーセックスと生命の尊重」のスレは仏教が統一原理より説得力のある教えかどうかを議論するために立てました。仏教のことはよく分かっていませんが、キリスト教正当派のことはもっと分かっていません。だから、キリスト教正当派が統一原理を超える教えかどうかの議論は出来ません。でも、統一協会で言ってる拉致監禁・強制改宗を考えるとキリスト教正当派の教えは統一原理を超える教えのように思います。

以前、サライさんが言っていた、

>結論から言うと、「データは理論を越えられない」、一つの理論を倒すことは、「より説得力のある理論」であると言うものです。

を考えると、キリスト教牧師が統一信者を改宗させようとしているのなら、キリスト教正当派の教えは統一原理よりも説得力がある教えだったようにも思います。だから、統一協会で言ってる被害者は改宗して、それが強制改宗のように見えているだけのようにも思います。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3234921

>私は、この言葉はもっと簡単な意味でチェさんが使っていると思っていたのですが、けっこう深い意味があるなと感じてきました。

ありがとうございます。

>例えば他のスレにありましたが
フリーセックスについてです、
自分の好みの女性と次々と関係しながら性欲を満たしていくことはどうでしょうか?

そこには、妬みや嫉妬が生まれます。人間は誰しも妬みや嫉妬する心を持っているので、自分が愛する異性が他の異性と性交渉すれば、そこに妬み・嫉妬が生じます。

>肉欲を満たすことについては都合の良い状態であるけれども
純愛的愛の形(心の全てを許せる女性との精神的関係)がなければ若しくはそういうものを得られなければ、都合の良い状態とは言えないように思えます、矛盾性を内包しているように思えます。
>原理的に言えば霊肉共の幸福が
精神的にも肉体的にも都合が良い状態となると思います。

僕もそのように思います。心と体が満たされてこそ都合のよい状態です。

>また、特に男・女の関係においては、互いに愛と性を独占できる状態だとおもいますがいかがですか?

確かに、お互いに愛と性を独占し、誰も邪魔が入らなければ都合がいい状態です。

>男女の愛と性の欲望が満たされることに言及しない幸福論は骨なしだと思っています。

人間には愛欲があるから、これを抜きにしては幸福論は語れないと思います。

>葬式仏教は神仏習合の結果だと私は思っています。
歴史的に仏教は中華思想を背景とした儒教の影響を受け日本に仏教が伝来するまでに様変わりしたと多くの本にあります。

仏教が中国から伝わったということは知っていたけど、儒教の影響を受けたことは知りませんでした。

>最近よく無宗教だといって葬式はせずに骨は墓にではなく散骨して海や山に撒くという弔いの話を聞きますが、この方がよっぽど仏教的だと思います。
初期仏教では弔いはどのようにするのでしょうか?
インドではガンジス川に火葬した遺骸を流すのを見ました仏教徒かヒンズー教徒かわかりませんでしたが。

初期仏教での弔いは分かりません。でも、浄土真宗では仏教は死人の為にあるのではなく、生きている人の為にあると教えます。親鸞も自分が死んだら、遺体は川に捨てて魚に食わせろと言ったそうです。これは、カルトの浄土真宗親鸞会と真流一の会も言っていることです。それで、浄土真宗正当派は葬式仏教だけど、自分のところは真実の浄土真宗を説いていると。

Re: 初期仏教について語ろう! - ENOCK URL

2010/10/31 (Sun) 01:37:42

サライさん、おかえりなさい

チェ・サンウさん

>僕もそのように思います。心と体が満たされてこそ都合のよい状態です。

私もその考えに賛成です。
肉体的な快楽を重ねても精神的な充足は得られません。両方を同時に満たすすべがあるならばそれがベストだと思います。

ところでここで、「ベスト」についての考察なのですが、
宗教によって目指すところ・目的とするところに差異があります。ベストを追求できるならば理想的ですが、どんなに望んでも得られないものを追求することは苦しいものです。
そこで宗教によっては手に入れられないベストを追求するのではなく、実現可能性のあるベターを追求する(もちろんそのベターを「最高のもの」として教えるけれども)ことを説くものもあるのではないでしょうか。
 それは決してその宗教が劣っているということを意味するわけではなく、最終的に同じ頂を目指すにしても、人によって上りやすい経路が異なることもあり得るのだから、選択肢を提供するという観点で良いことだと思うのです。
 どの宗教がどうだという分類は私には分かりませんが、各宗教の「目的」や「理想」を分析してみれば、何かしらの傾向がつかめるのではないかと思います。

と、するならば、あらゆる宗教や道徳的徳目において共通に価値を認めうる、誰もが至ることが望ましい「頂」は何にあたるのだろうかという「人類共通の理想」についてもおおいに論を交わしていきたいと思うのです。

仏教スレのテーマから若干はずれてしまいましたので、この内容についての続きは別のスレが良いかと思いますが、サライさんも戻ってきて下さったことですし、有意義な議論が交わされることを期待しています。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/10/31 (Sun) 22:33:05

ENOCKさん

>私もその考えに賛成です。
肉体的な快楽を重ねても精神的な充足は得られません。両方を同時に満たすすべがあるならばそれがベストだと思います。

ありがとうございます。心身共に満たせればベストですね。

>ところでここで、「ベスト」についての考察なのですが、
宗教によって目指すところ・目的とするところに差異があります。ベストを追求できるならば理想的ですが、どんなに望んでも得られないものを追求することは苦しいものです。
そこで宗教によっては手に入れられないベストを追求するのではなく、実現可能性のあるベターを追求する(もちろんそのベターを「最高のもの」として教えるけれども)ことを説くものもあるのではないでしょうか。

そうですね。実現不可能なベターを追求することを「あがりのない双六を振る」といいます。つまり、サイコロを振っても振っても目的(あがり)に近づけないということ。カルトと呼ばれる宗教では、実現不可能なことを人生の目的と言って、資金調達や信者集めをやらされます。例えば、浄土真宗親鸞会は「信心決定(浄土真宗で重要なこと。でも、親鸞会の信心決定は正統派とは違う)」が人生の目的となって信者に破邪顕正(伝道の親鸞会版)やお布施(要は献金の仏教版)をさせるけど、「信心決定」している人は未だ教祖だけです。自分の信じている宗教の人生の目的が実現可能かどうか考えることは大事ですね。

>それは決してその宗教が劣っているということを意味するわけではなく、最終的に同じ頂を目指すにしても、人によって上りやすい経路が異なることもあり得るのだから、選択肢を提供するという観点で良いことだと思うのです。
どの宗教がどうだという分類は私には分かりませんが、各宗教の「目的」や「理想」を分析してみれば、何かしらの傾向がつかめるのではないかと思います。
と、するならば、あらゆる宗教や道徳的徳目において共通に価値を認めうる、誰もが至ることが望ましい「頂」は何にあたるのだろうかという「人類共通の理想」についてもおおいに論を交わしていきたいと思うのです。

各宗教の目的・理想は、宗教一般について書いてある本を読めばいいと思います。ENOCKさんは宗教と社会のかかわりに関心がありそうなので、「宗教社会学」の本なんかも読んでみたらいいと思います。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/11/01 (Mon) 00:17:04

チェ・サンウさん

お元気で何よりです

大川さんについて

よくはわかりませんが、典型的食口の思考・表現だと思ってください。
長く教会にいるとこんな感じになってしまう人を良く見かけます。
修道院のシスターの雰囲気、坊さんの雰囲気と同じように統一食口の雰囲気があるんです、匂いが(笑)


セックスについて

チェ・サンウさんは独身なので経験があるかどうかわかりませんが、夫婦が抱き合う時完全に一つになりたいと思うのです。経験上単なる性的プレイではなく心も体も溶け合って一体化したい衝動にかられます。体があることがもどかしく感じます。
ここに究極の恍惚感と神との一体感があると教えてもらいました。


霊界に行けば体がないので愛の完成した夫婦は完全に一つになっていると教えられています。そして熱く輝いてきらびやかだと。


初期仏教にこのようなセックスの教えが存在するのでしょうか?


逆に統一教会ではセックスの話が公然と聖なるものとして、しょっちゅう出てくるので多くの誤解や中傷がありましたけど。


人間の最高の欲望は神の愛を占領することでありそれは、性殖器を通じて相手(相対)と霊肉共に一つになることです。

しかしこれは簡単そうで、簡単ではありません。なぜでしょうか? 自分だけではどうすることもできないからです。

昨日は私たち夫婦は結婚22周年でしたがまだまだです。
結婚してからこの境地の探求の道です、浮気しているひまはありません。


私は統一教会に献身した時、修道院のようなところで一生独身ですごさなければならないのではないかと純粋に思っていました。
しかしよくよく勉強してみると結婚しないと天国に行けない事がわかりました。
特に男は性欲の問題があるのでどうなるのかと不安でしたが妻を与えていただき解放されました。

いわゆる高等宗教と言われる宗教は出家独身が基本で性の戒律が厳しいですが、ちょっと調べただけで気持ち悪くなるような獣姦や同性愛の歴史がたくさん出てきます。神が与えた生殖という本能は抑えることがかえって不自然で神の意図からずれていたと言えるでしょうね。

親鸞はそういう意味でも革命的人物だったと思います。


ENOCKさん

お元気そうですネ

>誰もが至ることが望ましい「頂」

についてですが原理を知った立場でしか答えられないので面白くないでしょうが私の認識をとりあえず述べれば

メシヤ・弥勒・真人に出会うことだろうと思います。
いわゆる「真理の実体人間」

統一教会を考える時
今のところ2段階で考える必要があると常々思っています
個人の信仰を中心としたいわゆる宗教としての統一教会
そして宗教の頂としてのメシヤに出会った者達が次に行くべき家庭理想の実現と言う頂
その次がありますが現実問題として次まで論ずるにはギャップがありすぎますね。

統一教会内で問題がおきる一つの原因としてこの辺がごっちゃになっているので混乱が生じてしまうのではないでしょうか?このあたりは「天和堂」に詳しい分析が説かれているのでとても参考になりました。

すなわち、統一教会の本質的教えである家庭理想は宗教的頂を納めた人が本来目指すべきであるのに、最初の頂にとどかないうちに次の頂を目指すのでとても困難を極めていると思いますロッククライミング状態ですね(笑)

原理的に表現すれば
最初の頂は天使長の心情圏を越えることであり実子になることであり
次の頂は四大心情圏を完成することだろうと思います。

アベル・カインの問題も内的にアベルの立場も復帰してない人が突然父母の代身になってしまっていることが問題でしょうね。

そろそろ「位置」より「中身」にならないと摂理がふんずまる





Re: 初期仏教について語ろう! - 大川

2010/11/01 (Mon) 01:41:49

サライ様 


>大川さんについて

よくはわかりませんが、典型的食口の思考・表現だと思ってください。
長く教会にいるとこんな感じになってしまう人を良く見かけます。
修道院のシスターの雰囲気、坊さんの雰囲気と同じように統一食口の雰囲気があるんです、匂いが(笑)


このような、発言をしてきた、牧会者達を批判してきた方が、良くわからないですがと言いながら、批判をするというのは、いかがでしょうか?

自分の目の中にある梁が見えなくなっているのではないでしょうか?

他人とのやり取りを横で見ながら、批判をするというのは、極めてゲスなことです。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/11/01 (Mon) 17:18:45

大川さん

お気に触ったのならば謝罪いたします

すみませんm(_ _)m

お許し下さい


私はチェ・サンウさんも大川さんも否定しない表現だと思ってコメントしました。

国語力と表現力の足らなさゆえです、悪意はありません。

こういう掲示板ではよくあるすれ違いだと思いますので、もう少し気楽にお付き合い下さい。

ある程度わかりあうには時間も必要です。
寛容にお願いします。



Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/11/01 (Mon) 18:08:09

チェ・サンウさん

別のスレッドから引っ張ってきました

>動物を殺すことを罪とするかしないかは、「原理講論・聖書vs仏教の経典」で対立しても決着はつかないと思います。どちらの考えが建設的かで、決まると思います。


このことをもっとハッキリさせるために質問します。


初期仏教では人間を殺すことと動物を殺すことは同罪でしょうか?


原理では存在の格位の差異を解きます。
簡単に言うと、命としては尊く平等ですが、愛を中心としてみた時、格位があります。

例えば親と子という格位があり兄弟でも長男と末っ子では格位が違います。これは地上に生きている限り絶対に変えることのできない宿命です。

これと同じように

堕落の原因となった天使長と人間にはハッキリとした格位があったために神様の愛の量(正しい表現ではありませんが解りやすくするために)が違いました。このことに嫉妬した天使長がエバを誘惑したと言うのが堕落論です。

このように、動物(万物)と人間にはハッキリとした格位の差があります。

ですから人間を殺すのと動物を殺すのとでは、当然違ってきます。

文先生のみ言葉に、「一人の人間が地上に生まれて死ぬまでに消費または栄養素とする万物の量は決まっているんだ」というのがあります。
要は、過度の自己中心を動機とした殺生(殺生に限らず万物のムダ使い)は罪であるが、必要不可欠な量の殺生は問題なし、となり罪ではありません。

万物の側からの説明も必要になりますが、煩雑になるので後に譲ります。


建設的であるかどうか判断する指針や基準があると良いですね。





Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/11/02 (Tue) 22:22:09

サライさん

>>動物を殺すことを罪とするかしないかは、「原理講論・聖書vs仏教の経典」で対立しても決着はつかないと思います。どちらの考えが建設的かで、決まると思います。
このことをもっとハッキリさせるために質問します。
>初期仏教では人間を殺すことと動物を殺すことは同罪でしょうか?

初期仏教というか仏教全般で同罪となっています。ともに殺生罪です。

>原理では存在の格位の差異を解きます。
簡単に言うと、命としては尊く平等ですが、愛を中心としてみた時、格位があります。
例えば親と子という格位があり兄弟でも長男と末っ子では格位が違います。これは地上に生きている限り絶対に変えることのできない宿命です。
これと同じように
堕落の原因となった天使長と人間にはハッキリとした格位があったために神様の愛の量(正しい表現ではありませんが解りやすくするために)が違いました。このことに嫉妬した天使長がエバを誘惑したと言うのが堕落論です。
このように、動物(万物)と人間にはハッキリとした格位の差があります。

この各位が、差別の元だと思います。この各位がエスカレートして、殺人さえも肯定する考えが出てくるのだと思います。

>ですから人間を殺すのと動物を殺すのとでは、当然違ってきます。

これは人間の傲慢です。「人間は動物より偉い」という思いが、エスカレートして望まれない命を中絶するような問題が起きるのだと思います。

>文先生のみ言葉に、「一人の人間が地上に生まれて死ぬまでに消費または栄養素とする万物の量は決まっているんだ」というのがあります。
要は、過度の自己中心を動機とした殺生(殺生に限らず万物のムダ使い)は罪であるが、必要不可欠な量の殺生は問題なし、となり罪ではありません。
万物の側からの説明も必要になりますが、煩雑になるので後に譲ります。

そうなのですか?必要不可欠な殺生は問題なくて罪にならないという考えは、人間の傲慢だと思います。それならば、テロも必要不可欠な殺戮だったら問題ないことになります。でも、実際、我々は動物を殺して生きています。仏教では、食べることが罪で生きること自体、罪と説きます。でも、だから食べるなとか生きるなと言っているのではなくて、仏教はそんな罪深い存在であることを自覚して生きろと言っているように思います。

>建設的であるかどうか判断する指針や基準があると良いですね。

そうですね。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/11/03 (Wed) 01:07:15

サライさん

前のコメントを見逃してました。

>お元気で何よりです

ありがとうございます。

>大川さんについて
よくはわかりませんが、典型的食口の思考・表現だと思ってください。
長く教会にいるとこんな感じになってしまう人を良く見かけます。
修道院のシスターの雰囲気、坊さんの雰囲気と同じように統一食口の雰囲気があるんです、匂いが(笑)

典型的な統一信者なのですか?大川君は、ENOCKさんとサライさんにも嫉妬してるようです。ENOCKさんとサライさんへは、「さん付け」なのに、自分は「君付け」なんて確かに面白くないですね。僕は基本的に馬鹿信者とみなした奴は「君付け」で、信者でも、しっかりした信念のある人は「さん付け」です。最初、ENOCKさんは誤解していましたが、サライさんとENOCKさんを評価する統一協会反対派は僕だけではないようです。KNEさんのコメントです。

>私も統一教会は早く解散したほうが良いと思ってましたが、ENOCKさんやサライさんなどの意識の高い食口さんのコメントを読むと、もしかしたら統一教会は脱皮して健全化できる可能性が少しはあるのではないかと今は考えています。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3234921

大川君は「人に憶測で言うな」と言いながら、自分も憶測で言っています。

>恐らく、社会経験の少ない、上司に良く否定されて、ストレスのためこんでしまった人間とみます。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3264885

大川君はサライさんにも絡んでますね。それを謝罪するなんて、サライさんと大川君ではどちらが大人でしょう?僕もちゃぼさん式で、馬鹿信者とは話したくありません。ちゃぼさんの北上君へのコメントです。

>私はさだおさんとはお話したいと感じたため投稿させていただきましたが、そう感じられない食口も残念ながらおります。それは食口が「この人は相対する価値がない」と感じた場合があるのと同様だと言えば通じますでしょうか。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3132794

どうして統一協会は、世界平和とか理想家庭とかいいながら、ネット上で信者同士、ケンカをするのですか?

「北上君 VS ヒロシさん」は、URLを示すまでも無いでしょう。「腰抜けサタン」は有名ですね。

サライさんとENOCKさんが書き込むようになる前に書き込んでた焼いも君(紅いも)と生命の木君も仲間割れをしました。これは、最後、韓定食さんがネット漫才として決めました。

>それでは、引き続き「紅いもさん VS 生命の木さん」の仲間割れをお楽しみください。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=2978162

サライさんも元食口北上君と大川君から、文句を言われてますね。ENOCKさんに至っては、霊的集団扱い。

サライさんへの大川君のコメントです。サライさんはゲス扱いされてます。

>他人とのやり取りを横で見ながら、批判をするというのは、極めてゲスなことです。

サライさんへの元食口北上君のコメントです。ネット漫才にもならないですね。

>サライ君
「ネット漫才にしては度が過ぎてます。
節度ある表現をお使い下さい。」
を撤回し、私に謝罪しなさい。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3234921

ENOCKさんへの元食口北上君のコメントです。

>ここが、ENOCKとやらが所属する
霊的集団で、真の御父母様の証言で、裁判で負けた団体である。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3217999

この掲示板に書き込む統一原理を批判する人たちの方が、このような醜い争いはしてないように思います。みんな統一協会を批判する共通の目的があるからだと思うのですが、統一協会側には理想家庭づくりという共通の目的があるはずです。

でも、統一協会を批判する派でも、僕はちゃぼさん、Lu.TKさん、まりんちゃん、キミアキさんとは対立していますが、これはネット漫才の範疇内です。

やっぱり、統一原理はデタラメだからこのような人間が造成されるのでしょうか?と言いたくもなります。サライさんとENOCKさんに統一原理をデタラメと言うからには、統一原理より説得力のあるだろう教えを示すべきなので紹介します。というか、宗教に対する理想的(?)なスタンスを紹介します。

特に宗教にはこだわらないで、「良いところは取り入れる」、「悪いところは切り捨てる」というスタンスで自分の納得できる教えを作っちゃうというのはどうでしょうか?

実は、僕の基本スタンスがこれです。初期仏教、初期仏教とよく言っていますが、初期仏教をベースにあらゆる宗教の良いところを取り入れてます。以前、どこかのスレで初期仏教は信じる要素がないみたいなことを言いましたが、よく見たらありました。

転生輪廻が信じる要素で、証明不可能です。僕は信じていませんが、お釈迦様は転生輪廻を信じない人も実践できるように仏教を説きました。「信じない人も実践できる」という点が魅力です。宗教全般について書いてある本に、中村圭司著「信じない人の為の宗教講義」という本があるのですが、まさに僕のような人の為に書かれたタイトルです。

サライさんとENOCKさんなら、統一原理の良いところをベースにいろいろな宗教の良いところを取り入れてはどうでしょうか?それこそ、統一原理の良いところをベースに今議論してる初期仏教の良い点を取り入れるとか。それに団体にはこだわらなくてもいいと思います。北上君や大川君が典型的な信者なら望みは無いような気もします。

それに、統一協会は活動についていけなくて辞める人が多いと聞きます。お釈迦様がしたみたいに、活動についていけない人でも個性完成ができる処方箋のようなものは、文鮮明氏は説かなかったのでしょうか?

>セックスについて
チェ・サンウさんは独身なので経験があるかどうかわかりませんが、夫婦が抱き合う時完全に一つになりたいと思うのです。経験上単なる性的プレイではなく心も体も溶け合って一体化したい衝動にかられます。体があることがもどかしく感じます。
ここに究極の恍惚感と神との一体感があると教えてもらいました。
霊界に行けば体がないので愛の完成した夫婦は完全に一つになっていると教えられています。そして熱く輝いてきらびやかだと。
>初期仏教にこのようなセックスの教えが存在するのでしょうか?

初期仏教には具体的なセックスの教えはありません。でも、初期仏教の教えを組み合わせると、いろいろ説明できるところがあります。

例えば、1つになりたいと思うのは、独占欲からです。相手を自分だけのものにしたいという気持ちです。だから、自分のパートナーが自分以外の人とセックスをすれば嫉妬心が生じます。だから、お互いに自分の心は汚く独占欲を持っているということが分かれば、自分がされて嫌なことはしないということで浮気はしなくなると思うし、仮に浮気をされても人間にはこのような心があると相手を許せると思います。このように女性と付き合ったことがないから何とも言えませんが。

>人間の最高の欲望は神の愛を占領することでありそれは、性殖器を通じて相手(相対)と霊肉共に一つになることです。

神の愛も含めて愛を占領したい欲望は、仏教全般では独占欲と説きます。だから、天使長は人一倍独占欲が強かったのです。神様自体も人間に対する独占欲と執着心が強かったと言えます。6000年間悲しんだというから、並大抵の独占欲と執着心ではないですね。でも、神様が人生というか神生何が起こるか分からないと悟っていたら、とっくに諦めて復帰摂理歴史は無かったと思います。だから、6000年間も悲しむようなことは無かったと思います。

この世は無常です。常に周りは変わります。そして、我々は自分にとって都合の良い変化を望みます。でも、実際は都合の悪い変化が多いから苦しんでいます。アダムとイヴも神様の思った通りにできたから、見て良しとしたのでしょう。でも、アダムとイブが堕落して自分の都合の悪い変化をしたから悲しんだのでしょう。

>いわゆる高等宗教と言われる宗教は出家独身が基本で性の戒律が厳しいですが、ちょっと調べただけで気持ち悪くなるような獣姦や同性愛の歴史がたくさん出てきます。神が与えた生殖という本能は抑えることがかえって不自然で神の意図からずれていたと言えるでしょうね。
親鸞はそういう意味でも革命的人物だったと思います。

押さえつけるのは建設的ではないと思います。キミアキさんがいい例ですね。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3126332

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/19 (Sun) 22:25:07

サライさん

>私には取っ掛かりが分かりません
何かヒントというかスタートラインにたたせて下さい。
初期仏教のなにからはじめればいいと思いますか?
今後は前に立てた初期仏教について語ろうスレッドでやっていきましょう。

僕も初期仏教のことは大して分かっていませんが、初期仏教の根幹は、「無常」です。「この世は常に変化を続け、永続するものは無い」です。人間の心もコロコロ変わって、生あるものはいつかは死にます。人間の心はコロコロと変わり、無常の変化を自分に都合の良いように変化することを望むから苦しむのです。自分の都合の良い方向に変化することは少ないです。あと、初期仏教の根幹は、人間は常に自己中心的で自分の都合が良くなることしか考えていないということだと思います。

このように見れば、統一原理を聞いて幸福になった人は、状況が自分の都合が良い方向に変化をし、不幸になった人は都合が悪い方向に変化したと言えそうです。サライさんは、統一原理が人間にとって都合の良い方向に変化させるものと信じているのですよね。このように信じるか信じないかは自由です。

統一協会の悪い点については、例えば、霊感商法をやったり、大して統一原理を信じてない人と結婚させるようなことがあれば都合が悪い方向に変化します。良い点と言えば、具体的には思い浮かびませんが、統一原理を聞いてこの世の変化が、自分にとって都合の良い方向に変化して幸福を感じる人がいることだと思います。神様が悲しんできたのも、人間が都合の悪い方向(堕落)に変化したからだと言えそうです。

自分としては、「無常」と「人間は常に自己中心的」の2点を抑えて、自分の身の回りを客観的に観察することが取っ掛かりだと思います。日本テーラワーダ仏教協会のサイトです。初期仏教のことをテーラワーダ仏教と言います。このサイトはあまり見てませんが、参考にするものがあると思います。

http://www.j-theravada.net/

統一原理に初期仏教をアレンジするというより、統一原理の信仰を持ちながら、「無常」と「人間は常に自己中心的で自分の都合が良くなることしか考えていない」ことを抑えて、自分の身の回りを客観的に観察することぐらいしか思い浮かびません。すみません。僕自身初期仏教のことが分かっていないので、大したアドバイスができませんでした。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/20 (Mon) 00:23:04

それではまず

「無常」について語りましょう。

ENOKUさんからの意見もまっています。


ひとつ疑問は

「無常」に最初と終着点があるかないか?
輪廻転生の考えもそうですが、魂の初めはどこか?一つか?それともいくつか数が決まっているのかハッキリしません。
お釈迦様は分からないことは考えるなと言ったのでしょうか?

原理では、心情(愛を通して喜びを得たい)が出発で、永遠の喜び(飽きない)が終着点といえると思います。



また

無常と言う変化(現象)に目を向けますが
変化しているものの本質(現世に現れている瞬間の姿)は何と仏教は説くのでしょうか?

たとえば、海の波は常に変化していますが、その海水そのものは何だと言うのでしょうか?ひとの命も輪廻転生して変化していますが、命そのものは仏教ではなんだと言うのでしょうか?
その存在の意義価値を認めるのでしょうか?

微分積分的疑問としておきます。

原理では常に変化する森羅万象はもちろん認めます(主体と対象が円形または球形運動をして回転している)が、その存在価値は、創造目的に合致する四位基台を完成する時、絶対的価値として決定されるとなります。

これは、被造世界の中心である人間が完成しない限り森羅万象は価値を発揮できないと言うことになります。環境汚染などはこの良い例です。万物は嘆いているのです。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/20 (Mon) 19:36:39

疎外

 共産党支配下のソ連や中国などでは、人間の解放を掲げる思想の名のもとに、何千万人もの罪もない人々が殺されていった。
 かつての日本軍国主義は、祖国と民族の誇りのために、多くの異民族を犠牲にしただけではあきたりず、特攻、バンザイ突撃、集団自決等々、何の戦闘効果もない無駄死にをすべての自国民に強要した。
 今もなお、「正義」の名のもとに、「宗教」の名のもとに、「民族の誇り」の名のもとに、他人の命も自分の命も踏みにじる人々が絶えない。

 そもそも、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、どこにも物理的実体がない。生物的実体もどこにもない。ただ人間が頭の中で作りだした、人間の頭の中にだけあることにすぎない。
 それなのに、これらの事どもは、一旦できあがると、それを作りだした生身の人間を勝手に離れて一人立ちしてしまう。そして、どこかにあたかも物理的実体があるかのようにみなされるようになる。さらにはいつの間にか主人面をして、もともとそれを作りだした生身の人間を縛り付けてくる。ついには生身の人間達を血なまぐさくいけにえに捧げるよう命令しだす。
 しかしもともと「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、生身の人間一人一人の生活の都合のために作りだされたものではなかったのか。だとしたら、これらの事どもが生身の人間の都合を離れて勝手に自立して、逆に自らの都合に合わせて生身の個々人を振り回すのは本末転倒ではないか。

 このように、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭中の観念が人間から勝手に離れて一人立ちし、生身の人間を縛り付けて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうことを、フォイエルバッハや青年マルクスの用語で「疎外」と言う。


ある学者のサイトより

この辺の考え方チェ・サンウさんどう思いますか?

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/22 (Wed) 00:03:26

サライさん

>「無常」に最初と終着点があるかないか?
輪廻転生の考えもそうですが、魂の初めはどこか?一つか?それともいくつか数が決まっているのかハッキリしません。
お釈迦様は分からないことは考えるなと言ったのでしょうか?

仏教では魂の始まりは想定しないと思います。初期仏教ではありませんが、浄土真宗にどの経典か忘れましたが、「無始よりこの方…」という言葉があります。始まりは無く、いつかは分からない時から現在に続くという意味だと思います。お釈迦さまも「死後のことは考えるな」と言いましたが、答えが分からない問いには答えなかったそうです。ここから「分からないことは考えるな」と言ったのは僕の勝手な想像です。すみません。仏教のことは十分に理解していなくて、チェ・サンウ仏教が入ってます(仏教全般を指すので初期をはずして仏教という表現にしました)。

>原理では、心情(愛を通して喜びを得たい)が出発で、永遠の喜び(飽きない)が終着点といえると思います。

仏教でも人間は、愛を通して喜びを得たくて、永遠に喜んでいたいと思う生き物と説きます。でも、実際は喜びが得られないから我々は苦しんでいます。初期仏教では我々が苦しむのは人間が堕落したからではなく、無常に逆らうからと説きます。この世は常に変化をし、自分にとって都合の良い状態に変化する時もあれば、都合の悪い状態に変化する時もあります。都合の良い状態は永遠に続いてほしいし、都合の悪い状態は早く変わってほしいです。でも、我々の思うように状態が変化するわけではありません。都合の良い状態は早く変わるし、悪い状態はいつまでも続くことが多いから、苦しむのです。人間が主観に固執するのは、堕落したからではありません。人間を作った神様も思った通りに世界ができたら、「それを見て良し」として思うようになったから喜んでいるし、人間が堕落したら、思うようにできなくて悲しんでいますね。神様も主観に執着する「無常」の存在です。そして、人間に執着しているから悲しんでいるのです。4000年か6000年も、大した執念ですね。

仏教では我々が愛と呼ぶものが何かも説いています。愛とは欲望と説きます。愛欲といいます。こと男女の愛では、相手を自分だけのものにしたいという思いです。親子の愛と言っても所詮都合です。一たび都合が悪くなると親子でも夫婦でもいがみ合います。子が親を殺したり親が子を殺す事件を見れば明らかでしょう。そして、これらの原因は、主観にこだわることです。主観にこだわるのは執着からです。神様も主観にこだわるから、人間が主観にこだわるのは人間始祖が堕落したからではないでしょう。

仏教では自分の心を内省し、「無常」が分かれば執着しなくなることですが、僕はまだ分かっていません。この世はすべて「無常」で執着するに値しないものばかりだから、「無常」が分かれば執着しなくなるということです。

仏教では、人間は、統一原理の終着点でもある永遠の喜びも得たい生き物と説きます。しかしそんなことは「無常」から見ると不可能です。永遠に喜び続けることは可能だと思いますか?永遠の喜びとは我々の心が永遠に喜び続けることです。初期仏教では「無常」を説きますが、初期仏教が説いていようが説いてなかろうが、この世は、「無常」です。永遠に存続するものはありません。「無常」から見ると永遠に喜び続けるなんてことはあり得ません。喜ぶのは自分にとって都合の良い状態です。自分にとって都合の良い状態が永遠に続けば話は別ですが、こんな状態が永遠に続くわけがありません。初期仏教では、人間は「無常」に逆らうから苦しむと説きます。

でも、無常だから逆に楽しいとも説いています。子育ても、子供がいないから何とも言えませんが、子供が変わるから楽しいということです。心も永遠に喜んでいて変化がなかったら、面白くないと思います。仏教では喜怒哀楽と変化があるから、楽しいと説きます。でも、我々は常に喜んでいたい生き物です。

人間が喜ぶのは自分にとって都合の良い状態で、永遠の喜びを求めることは、永遠に続く自分にとって都合の良い状態を喜んでいたいということです。人間は誰でも永遠に喜んでいたいと思う存在です。でも、この世は「無常」です。「無常」に逆らうから人間は苦しんでいるのです。永遠の喜びを終着点とすることは、「無常」に逆らうことです。だから、統一原理は「無常」に逆らって苦しむことを推奨しているように思います。この点も含めて、統一原理はデタラメです。

>無常と言う変化(現象)に目を向けますが
変化しているものの本質(現世に現れている瞬間の姿)は何と仏教は説くのでしょうか?
たとえば、海の波は常に変化していますが、その海水そのものは何だと言うのでしょうか?ひとの命も輪廻転生して変化していますが、命そのものは仏教ではなんだと言うのでしょうか?
その存在の意義価値を認めるのでしょうか?
微分積分的疑問としておきます。

すみません。この点は分かっていません。勉強しておきます。でも、仏教は生命の存在というか「私(自分)」には執着する価値は無いと説いています。命そのものも仏教では「無常」の存在と説きます。でも、すべての生命は平等と説くから、生命の意義価値は認めていると思います。

>原理では常に変化する森羅万象はもちろん認めます(主体と対象が円形または球形運動をして回転している)が、その存在価値は、創造目的に合致する四位基台を完成する時、絶対的価値として決定されるとなります。
これは、被造世界の中心である人間が完成しない限り森羅万象は価値を発揮できないと言うことになります。環境汚染などはこの良い例です。万物は嘆いているのです。

仏教では人間を世界の中心とすることを、人間の思い上がりと説きます。人間もここでいう獣などの万物も平等の生命です。でも、我々は人間が一番偉いと思いたいです。生命がすべて平等という自覚があれば、我々と同じ生命を犯してはならないということで環境汚染等の問題は無くなると思います。でも、人間が世界の中心と説くと、例え、「万物を大切にしよう」と言ったところで、世界の中心であるという思い上がり故に環境汚染等の問題が起きると思います。

>このように、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭中の観念が人間から勝手に離れて一人立ちし、生身の人間を縛り付けて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうことを、フォイエルバッハや青年マルクスの用語で「疎外」と言う。
ある学者のサイトより
この辺の考え方チェ・サンウさんどう思いますか?

これは主観に固執していると言えそうです。「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭中の観念も主観です。『「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭中の観念が人間から勝手に離れて一人立ちし』という意味が分かりませんが、固執していることと読めます。これを「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」に固執すると解釈して進めて行きます。

>今もなお、「正義」の名のもとに、「宗教」の名のもとに、「民族の誇り」の名のもとに、他人の命も自分の命も踏みにじる人々が絶えない。

正義・宗教・民族の誇りに固執するから、異なる正義・宗教・民族の人の生命を軽視して自他の生命を踏みにじるのです。正義・宗教・民族の誇りは主観です。「無常」が分かれば、正義・宗教・民族の誇り等、そして自分の都合も「無常」で固執するに値しないことが分かり、執着から離れられるということですが、僕はまだ分かっていません。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/22 (Wed) 19:26:47

チェ・サンウさん

>永遠に存続するものはありません。

このことは、実証できますか?

できなければ、我々は同じ土俵ですね。

たとえば、心は老化していると思いますか?
年齢を重ねても、心はとても若いことに気がつきます。
環境や価値観、人生観のもちかたでいくらでも若い気持ちでいることができます。経験的にそうだといえます。
というか、変わらないことを実感します。
気分の高揚や落ち込み・喜怒哀楽の変化はあっても「心」自体は常に存在し変化し続けていますが本質は変わらないとみますがいかがでしょうか?

あるおばあさんが、やってみたいことは?「ピアスを付けてみたい」というコマーシャルがありますが、人の目や環境、肉体が許せば人間は若くあり続けることができると思います。

また、元素と言われるミクロレベルの原子核と電子の作用の関係の法則は変わらないし、エネルギー保存の法則など物理化学の法則は永遠に変わらないと言うのが定説ではないでしょうか?これらは基本的に証明されているはずです。

また、生命力など環境が整えば種の保存法則も変わらないと見て良いと思います。

原理ではこれらの根本的存在の力を万有原力とよびます。

これは主観の産物ではなく事実ではないでしょうか?

原理はこの辺から神の存在を論証していきます。
科学的論証ではないと言い切れるでしょうか?



>すべての生命は平等と説くから、生命の意義価値は認めていると思います。

平等であるから「尊い」と言う根拠は仏教ではどこに置くのでしょうか?「無常」なものに尊さや尊厳、価値を見出す根拠が知りたいですね。





Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/22 (Wed) 23:38:20

サライさん

>>永遠に存続するものはありません。
>このことは、実証できますか?
できなければ、我々は同じ土俵ですね。
たとえば、心は老化していると思いますか?
年齢を重ねても、心はとても若いことに気がつきます。
環境や価値観、人生観のもちかたでいくらでも若い気持ちでいることができます。経験的にそうだといえます。
というか、変わらないことを実感します。
気分の高揚や落ち込み・喜怒哀楽の変化はあっても「心」自体は常に存在し変化し続けていますが本質は変わらないとみますがいかがでしょうか?
あるおばあさんが、やってみたいことは?「ピアスを付けてみたい」というコマーシャルがありますが、人の目や環境、肉体が許せば人間は若くあり続けることができると思います。
また、元素と言われるミクロレベルの原子核と電子の作用の関係の法則は変わらないし、エネルギー保存の法則など物理化学の法則は永遠に変わらないと言うのが定説ではないでしょうか?これらは基本的に証明されているはずです。
また、生命力など環境が整えば種の保存法則も変わらないと見て良いと思います。

なんか存続の解釈が、僕とサライさんでは違っているように思います。でも、サライさんの解釈ならこれは正しいです。

サライさんの解釈では、例えば心そのものは変わりませんが、僕というか初期仏教では喜怒哀楽などの心の変化は、一瞬先には別のものに変わっていると説きます。初期仏教では、「心」自体が常に存在し変化し続けていることを無常と言います。初期仏教ではこのコメントを書いてる僕と前のコメントを書いた僕では、同じチェ・サンウだけど別人と説きます。

永遠に存在するものがあるかないかは、どちらも証明不可能だと思います。僕とサライさん、ENOCKさんは同じ土俵で、誰の意見が一番建設的かが問題になってきます。

心については、本質は変わらないから自分の心は変わらないと思うより、自分の心は常にころころ変わると思った方が建設的だと思います。ころころ変わると思った方が、怒りや悲しみの感情に見舞われた時に対処しやすいと思います。あの人が憎いと思っても、あの人は無常の存在で、憎いと思ったあの人とは別人です。このように考えることによって、争いが無くなるということですが、僕はまだ分かっていません。

>原理ではこれらの根本的存在の力を万有原力とよびます。
これは主観の産物ではなく事実ではないでしょうか?
原理はこの辺から神の存在を論証していきます。
科学的論証ではないと言い切れるでしょうか?

いくら科学的に論証しても、結局、最後は信じるか信じないかの問題になるような気もします。この掲示板でも、「神様の存在を証明して」という質問(あったかなあ?統一原理が真理であることを示せはあったと思うけど)に答えられた統一信者はいません。

>平等であるから「尊い」と言う根拠は仏教ではどこに置くのでしょうか?

ちょっと勉強不足の為分かりません。チェ・サンウ仏教になりますが、人間は誰でも自分の命が一番尊く思う生き物です。仏教は動物等の生命と自分の生命を同等に見るから、必然的に動物の生命も尊くなるのだと思います。

>「無常」なものに尊さや尊厳、価値を見出す根拠が知りたいですね。

これも勉強不足の為、チェ・サンウ仏教になりますが、仏教はすべて「無常」だから一切のものには価値は無いと説きます。この価値がないというのは執着するに値しないということです。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/23 (Thu) 22:58:06

チェ・サンウさん

>人間は誰でも自分の命が一番尊く思う生き物です。

人間は愛の為に命を捧げることができます。
愛する人のため、国のため、人類のため・・・

最も尊いものは、愛する対象のために命を超える行為ではないかと思います。

>仏教はすべて「無常」だから一切のものには価値は無いと説きます。

それでは「慈悲」とは初期仏教ではどのように説くのでしょうか?
慈悲深い生き方や行いにも価値がないのでしょうか?

私には慈悲深い生き方には輝きが見え、美しいと写ります。

たぶん、執着なく与えつくす姿こそ最も価値があることではないでしょうか?


紹介されたHPには自分と他人を区別するなとありました。すなわち自分に執着すると他人との間に線引きが始まると言う話です。

天上天下唯我独尊と言う言葉と矛盾するように思いました。


キリスト教や原理では、他人ではなく血を分けた兄弟姉妹と説き家族として痛みや苦しみ喜びを共有しようと努力します。
たぶん「個」としては独立していますが、「関係」においては、許し、愛し、団結しようという積極的な側面を、仏教に比べて感じます。

釈尊の教えの根本動機は「抜苦与楽」であろうと私個人は今思っています。

しかし、これが執着からの解脱で得られるとすれば、「抜苦」は解りますが、「与楽」が見出せません。

人間の究極の「与楽」は男女の交わりではないかと思います。そのために生殖器が与えられているのですから。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/24 (Fri) 21:50:16

サライさん

>人間は愛の為に命を捧げることができます。
愛する人のため、国のため、人類のため・・・
最も尊いものは、愛する対象のために命を超える行為ではないかと思います。

サライさんの言う通りです。人間が最も尊く思うものには命をかけます。でも、最も尊いもの、愛する対象とは人間にとってどのような存在でしょうか?これは、執着する存在だと思います。執着しなかったら、命を捧げるなんてことはしません。

サライさんも近所のクソガキに命をかけたりできますか?愛する人の為はもちろんのこと、国の為は、自分が住む国を住みやすくしたい欲望だと思います。人類の為も何か見返りを求めていると思います。

>それでは「慈悲」とは初期仏教ではどのように説くのでしょうか?
慈悲深い生き方や行いにも価値がないのでしょうか?
私には慈悲深い生き方には輝きが見え、美しいと写ります。
たぶん、執着なく与えつくす姿こそ最も価値があることではないでしょうか?
紹介されたHPには自分と他人を区別するなとありました。すなわち自分に執着すると他人との間に線引きが始まると言う話です。

すみません。慈悲のことは分かりません。でも、慈悲深い生き方に輝きが見えて美しく映ることには共感します。執着なく与えつくす姿に価値があるのも共感できます。

>天上天下唯我独尊と言う言葉と矛盾するように思いました。

これも分かりません。原理不理解北上ならぬ、仏教不理解チェ・サンウです。よく、初期仏教、初期仏教と言ってますが、理解も不十分だし転生輪廻も信じていません。初期仏教の一番の主張は「無常」ですが、ENOCKさんとサライさんが「家庭の教え」である点で統一原理に惹かれているように、僕も、「事象を客観的に観察せよ」という点で初期仏教に惹かれています。この点で統一原理、初期仏教の違いはありますが、僕もサライさん、ENOCKさんと同じ土俵にいると思います。

ここで一番危険な発想が、自分の信じる教えに執着することです。初期仏教だったら初期仏教の批判に屁理屈を考えることが執着です。だから、僕は初期仏教だけにこだわるつもりはありません。良いところは受け入れて悪いところは切り捨てます。

確かENOCKさんも良いものは良い、悪いものは悪いというスタンスだったと思いますが、この時点で初期仏教の教えを実践しているような気もします。
統一原理でも、今までデタラメと言われたところは場合によっては切り捨てる。そして、「家庭の教え」という点を大事にして「無常」を客観的に観察すれば統一原理に初期仏教をアレンジした教えになるかもしれません。

>キリスト教や原理では、他人ではなく血を分けた兄弟姉妹と説き家族として痛みや苦しみ喜びを共有しようと努力します。
たぶん「個」としては独立していますが、「関係」においては、許し、愛し、団結しようという積極的な側面を、仏教に比べて感じます。

キリスト教のことは良く分かんないけど、どちらかというと仏教はキリスト教より個に重点を置いているような気もします。でも、この個が、許し、愛し、団結につながると思います。

>釈尊の教えの根本動機は「抜苦与楽」であろうと私個人は今思っています。
しかし、これが執着からの解脱で得られるとすれば、「抜苦」は解りますが、「与楽」が見出せません。
人間の究極の「与楽」は男女の交わりではないかと思います。そのために生殖器が与えられているのですから。

「抜苦与楽」はよく分かっていませんが、「苦」を抜けば必然的に「楽」が与えられると考えています。

確かに男女の交わりは人間が欲することです。しかし、生殖器があるから人間の「与楽」を男女の交わりとすると、動物などの獣、確か万物というのですよね。万物にとってもオス、メスの交わりが最高の喜びなのでしょうか?

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/26 (Sun) 02:03:17

>ここで一番危険な発想が、自分の信じる教えに執着することです。

執着ではなく、心(本心)が喜ぶのか?否か?が本質ではないでしょうか?これが幸福の元始ですから。

教条主義のことをチェさんは指していると思いますが、
確かに統一教会の間違いもここにあったと思います。

しかし、原理の本質(創造原理)は、本心の自由を追求し、真の価値を追求します、真の喜びを追求します。

ですから、復帰原理の本質は、解放です。宗教からの解放、教条主義からの解放。


しかし責任のない自由は単なるエゴに過ぎません。
自由な心を責任のある自由にするのが「真の愛」の概念です。

でも厄介なことに、堕落により「偽りの愛」が先行したので、真の愛の教えが必要になったのであり、本来は親から学ぶべきものだったというのが原理です。

原理の主張は「復帰」です、元の状態に帰ろうと言うのです。



>万物にとってもオス、メスの交わりが最高の喜びなのでしょうか?

動物に聞いたことがないので解りませんが、発情期と言う一定の期間を、種によってそれぞれ違えながら神様が与えているところを見ると、人間の性交とは次元が違うでしょうね。

人間は成熟した後は、一生発情期ともいえます。
このことからも、身勝手な自由は自己破滅に陥る危険性を感じませんか。

愛と性の誤用は恐ろしい。


>愛する対象とは人間にとってどのような存在でしょうか?これは、執着する存在だと思います。

この部分はENOCKさんとも以前議論しましたね。
もう一度深く考えてみましょう。


「執着」と言う言葉は、執着する主体と、執着される対象の関係性を表していると見ていいでしょうか?

原理的な答えを出すと、この「執着」自体には是非はなく、何を目的として執着するか!と言うことがより重要です。

このあたりどうでしょうか?

仏教で言う執着を捨てよ!と言うのは、自己中心な目的性を持った執着であって、世のため人の為に奉仕しましょうと言う執着心はOKなのではないでしょうか?


Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/26 (Sun) 23:24:37

サライさん

>執着ではなく、心(本心)が喜ぶのか?否か?が本質ではないでしょうか?これが幸福の元始ですから。

そうです。執着して欲望が満たされれば、心が喜びます。僕は幸福とは自分の都合の良い状態のことと考えています。悪いことでも、自分の欲望が満たされれば心は喜びます。仏教は動物などの命も人間の命と同等と教えます。しかし、我々は動物の肉を食べて、おいしかったら「幸せ~」って思うこともあります。

>教条主義のことをチェさんは指していると思いますが、
確かに統一教会の間違いもここにあったと思います。

教条主義のことはよく分かりませんが、サライさんの言うとおり統一協会の間違いは教義に執着することにある思います。統一信者は批判されると、そこに誰も納得できない自分だけが納得できる屁理屈的なことを考えますね。北上原理はサライさんも納得できないですよね。北上原理は統一原理への執着から生まれたものです。北上原理で何か建設的なことはありましたか?ENOCKさんは良いところは良い、悪いところは悪いとしているから、統一原理をベースに初期仏教をアレンジしているかもしれません。統一原理をベースに初期仏教を取り入れることは、ENOCKさんが詳しいと思います。初期仏教の根幹は、「無常」ですが、厳密には「無常を客観的に観察せよ」です。言いかえると「起きたことは、ありのままに観察せよ」です。確か文鮮明氏の子供の誰かが、統一原理はキリスト教でなく仏教と言ったそうですね。統一原理が仏教なら、「起きたことはありのままに観察せよ」に通ずる事項が含まれていると思います。

>しかし、原理の本質(創造原理)は、本心の自由を追求し、真の価値を追求します、真の喜びを追求します。
ですから、復帰原理の本質は、解放です。宗教からの解放、教条主義からの解放。
しかし責任のない自由は単なるエゴに過ぎません。
自由な心を責任のある自由にするのが「真の愛」の概念です。

真の喜びとは、どのような状態になったことを指すのですか?

>でも厄介なことに、堕落により「偽りの愛」が先行したので、真の愛の教えが必要になったのであり、本来は親から学ぶべきものだったというのが原理です。
原理の主張は「復帰」です、元の状態に帰ろうと言うのです。

堕落とか偽りの愛は人間が、現在皆汚い心を持っていることの原因ですよね。しかし、堕落、偽りの愛が原因であるということは、証明可能なのですか?不可能ならば、信じる・信じないの話です。信じる・信じないは自由ですが、やっぱりこれを信じることによって建設的かどうかが重要です。

>「執着」と言う言葉は、執着する主体と、執着される対象の関係性を表していると見ていいでしょうか?

そうですね。主体と対象があって執着が生まれます。

>原理的な答えを出すと、この「執着」自体には是非はなく、何を目的として執着するか!と言うことがより重要です。
このあたりどうでしょうか?

結局、人間は執着から離れられない生き物だから、執着する目的が大事だと思います。

>仏教で言う執着を捨てよ!と言うのは、自己中心な目的性を持った執着であって、世のため人の為に奉仕しましょうと言う執着心はOKなのではないでしょうか?

結局、世の為、人の為も、最後は自分に返ってくるから自分の為です。サライさんは自分が損をすると分かっていて、世の為、人の為に何かができますか?

ところで話はかわって、サライさんには、娘さんがいたのですね。娘さんは結婚をどのように考えていますか?なつみちゃんの場合も、両親から「自由に結婚したらダメ」と言われたそうですが、これも執着から来ています。

つまり、両親はなつみちゃんが祝福2世同士で結婚することに執着し、なつみちゃんは彼氏と結婚することに執着している為に起きた問題です。僕も執着についてはまだ分かっていませんが、この手の問題は初期仏教の執着について学ぶと解決策が見えるかもしれません。

いつもはここで、なつみちゃんが彼氏との結婚に執着することは悪で、僕と結婚することは善とネット漫才をかますところですが、まじめな話をしているので今回はやめました。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/27 (Mon) 08:04:57

>結局、世の為、人の為も、最後は自分に返ってくるから自分の為です。サライさんは自分が損をすると分かっていて、世の為、人の為に何かができますか?

最終的には自分ですが、目前の事象に対して自分を犠牲にするのは簡単ではありません。

私は、教会のためでなく、人類と神の為に献身してきました。修道院に入る感覚と同じです。
自分の財産は言うに及ばず、仕事や生活全てを捧げてきました。
結婚相手を選ぶことも放棄し、相手の為に祝福を受けました。

>ところで話はかわって、サライさんには、娘さんがいたのですね。娘さんは結婚をどのように考えていますか?なつみちゃんの場合も、両親から「自由に結婚したらダメ」と言われたそうですが、これも執着から来ています。

本人はまだ原理や教会のことを良く解っていませんが、教会にはいつも通って楽しく感じているようです。
先輩の祝福家庭もたくさんいるので、祝福が当たり前だと思っているようです。そのことに関して強制したことは一度もありません。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/28 (Tue) 23:00:36

サライさん

>最終的には自分ですが、目前の事象に対して自分を犠牲にするのは簡単ではありません。

その通りです。自分を犠牲にできるのも、犠牲にすることに見合った見返りが得られるからです。僕は自分が損をすると分かっていて、自分を犠牲には出来ません。

>私は、教会のためでなく、人類と神の為に献身してきました。修道院に入る感覚と同じです。
自分の財産は言うに及ばず、仕事や生活全てを捧げてきました。
結婚相手を選ぶことも放棄し、相手の為に祝福を受けました。

人類と神様の為と言っても、結局見返りを求めていると思います。修道院に入っても、入ったことによるメリットがあるからだと思います。財産、仕事、生活を捧げたのも理想家庭の為ですよね。相手の為に祝福を受けても、結局は相手の為にしたことが自分の為になるのです。

ここで、結局はすべて自分の為の行動になるけど、見返りを求めて、つまり理想家庭を求めて、人類と神様の為にと献身することも、財産、仕事を捧げることも悪くありません。

サライさんは分かっているけど、北上君のような信者のために書きます。重要なことは、理想家庭のためと言って犯罪をしていいわけではありません。摂理のための犯罪・殺人なんて、結局は犯罪を犯して逮捕されても、それに見合った見返りがあると思っているからできることです。北上君は、「言うだけ男」っぽいから、言うだけで実際犯罪をやって逮捕されるような状況になったら、腰が竦むと思いますが。理想家庭のために、犯罪や殺人をするということは、結局は自分が理想家庭を築きたいからすることで、人のことなんて考えてないと思います。霊感商法しかりです。

統一原理は、「人の為」と言いますが、それが結局は「自分の為」ということまで説いているのでしょうか?説いてないのなら、下手に屁理屈的なことは考えないで、素直に「統一原理はそこまでは説いていません」と認めて、初期仏教の考え方をアレンジした方が建設的だと思います。

>本人はまだ原理や教会のことを良く解っていませんが、教会にはいつも通って楽しく感じているようです。
先輩の祝福家庭もたくさんいるので、祝福が当たり前だと思っているようです。そのことに関して強制したことは一度もありません。

娘さんは、今のところ祝福を受けるつもりでいるのならいいけれど、いつ自由恋愛を求めるか分かりません。そうなったときの為に初期仏教を学んでおくのもいいと思います。この手の問題のキーワードは「主観」です。        

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/29 (Wed) 01:02:09

チェ・サンウさん

前にも書いたと思いますが

神様の創造の動機は「愛することを通して喜びを得たい」と言うものだと原理は主張しています。
総序にも「欲望が満たされた時、幸福を感じる」とハッキリかいてありますね。

まさに、アルパでありオメガである、最初であり終わりである、出発の動機が結果として実る世界を求めているのです。

しかし、神様もそうですが、人間自体も幸せを、平和と平安を求めているが、そうなっていない現実をどう見るかということです。

だから、我々の考え方と対極にある共産主義は神はいないと言い、ニーチェは神は死んだと言いました。しかし幸福を求め平和を求めていることに違いはありません。神がいないとしたほうが人間幸福になれるという考え方ですね。


原理講論の「メシヤ再降臨準備時代」と言う章にアベル型人生観とカイン型人生観というくだりがあります。

どちらも、人間が幸せになりたいと考える代表的な考え方、スタンスを示しています。参考にしてください。


別のスレにかんごさんが書いていましたが

「善をなせ、悪をなすな」

報いは必ずめぐりめぐって返ってくる

ということは宇宙を貫く法則そのものです。


ですから、

>統一原理は、「人の為」と言いますが、それが結局は「自分の為」ということまで説いているのでしょか?

当然、説いています。


>理想家庭のために、犯罪や殺人をするということは、結局は自分が理想家庭を築きたいからすることで、人のことなんて考えてないと思います。霊感商法しかりです。


これは、「人の為」という動機は良かったが、善悪の判断がハッキリしていなかったと言えると思います。

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/29 (Wed) 22:18:04

サライさん

>前にも書いたと思いますが
神様の創造の動機は「愛することを通して喜びを得たい」と言うものだと原理は主張しています。
総序にも「欲望が満たされた時、幸福を感じる」とハッキリかいてありますね。
まさに、アルパでありオメガである、最初であり終わりである、出発の動機が結果として実る世界を求めているのです。
しかし、神様もそうですが、人間自体も幸せを、平和と平安を求めているが、そうなっていない現実をどう見るかということです。

サライさんのこの考え方は、初期仏教的で賛同できます。神様が平和と平安を求めていても、そもそも神様がいるかいないかは信じる信じないの問題です。しかし、人間が平和と平安を求めていても実現しないことは事実です。神様が平和と平安を求めているかどうかは実証不可能なだけど、これを信じつつも、現実現れている現象を観察しようとする姿勢は賛同できます。

>人間自体も幸せを、平和と平安を求めているが、そうなっていない現実をどう見るかということです。

このことの見方は初期仏教の中にあると思います。例えば、執着、主観から、人間は各自が自分の主観に固執するから他人の主観が認められずに争うことが見えてきます。個人間の些細な争いから、国家間の戦争まで主観に固執するから起きると思います。

>だから、我々の考え方と対極にある共産主義は神はいないと言い、ニーチェは神は死んだと言いました。しかし幸福を求め平和を求めていることに違いはありません。神がいないとしたほうが人間幸福になれるという考え方ですね。

神様がいた方が平和なのか、いない方が平和なのかについて、僕は「分からない」という立場を取っています。結局、神様を信じた方が幸福なのか信じない方が幸福なのか、それとも「分からない」という立場を取った方が幸福につながるのかということが問題ですね。僕は、いずれも分からないと思っています。このことについて考えるよりも、分からないものは分からないとしながら、現実・無常を客観的に観察しする姿勢を取っています。無常は観察しきれていませんが。

>別のスレにかんごさんが書いていましたが
「善をなせ、悪をなすな」
報いは必ずめぐりめぐって返ってくる
ということは宇宙を貫く法則そのものです。

善因善果、悪因悪果、自因自果ですね。現実、悪いことをやってもいい思いをする輩がいるし、いいことをやっても嫌な思いをする人がいるから何とも言えませんが、善因善果、悪因悪果、自因自果を肝に銘じて行動することは建設的です。

>ですから、
>>統一原理は、「人の為」と言いますが、それが結局は「自分の為」ということまで説いているのでしょか?
当然、説いています。

実際に説いていても、他の信者は理解してない可能性があります。サライさんが書き込む前に書き込んでいた焼いも君のコメントです。

>私自身、神と文師に十分の一どころか、借金をして、貢献したので、今の食口の立場がよく理解できます。人材と経済で十分の自己責任を果たしたと自負があります。天国でなくても中間界は、確保しました。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=2937503

結局、天国に行く見返りを求めていてやってたぽいです。焼いも君は人材と経済面で責任を果たすことが自分の為ということが分かっていたのか聞きたいです。

>これは、「人の為」という動機は良かったが、善悪の判断がハッキリしていなかったと言えると思います。

人の為というのも、結局は自分の為で、その為に、犯罪や殺人をするということは善悪の判断がハッキリしてないといえますね。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/30 (Thu) 08:56:43

NHKでハーバード白熱教室(授業?)という番組が先日ありました著名な教授が安田講堂で東大生に公開授業をしている放送です見ましたか?ネットにどこかであがってるかも知れません。

そこでは、過去の戦争責任などを現役世代の国民や政府が謝罪や賠償をすべきか?という議論が展開されていました。教授は哲学の先生です。

国家 民族 個人 道徳 過去 現在 未来 親子関係など様々な観点で学生達が討論していました。

結びに教授が、この問題は一番難しい問題であり、各国の事情背景などによって解釈が違い、統一された見解はない。
しかし、お互いの意見を戦わせることの大切さや意義は大いにあると言うよな結論でおわりました。

チェさんとの討論も答えにたどり着かないかもしれませんがお互いの意見を聞くと言うこと自体が尊く思われます。


焼きいも君の
>>私自身、神と文師に十分の一どころか、借金をして、貢献したので、今の食口の立場がよく理解できます。人材と経済で十分の自己責任を果たしたと自負があります。天国でなくても中間界は、確保しました。

こういう考えを持っている食口が多くいることを知っています。これこそ、教えを知っていながらサタンの罠にはまっていると言えます。焼き芋君を攻めるつもりはさらさらないですが、このような意識が自己中的組織を作ってしまう情的な核心となって、差別的な言動を生むと考えられます。自分は「アンパイ」を持っていると言うような意識です。

なつみちゃんの両親の場合もこれに当たると思います。
娘が天国に行けないのに親が行ける道理がないのです。

本来命がけでなつみちゃんに尽くすべきだし、自分は地獄に行っても娘だけは天国に入れてあげたいと必死になるのが、真の父母の教えだし、神様の心情です。

中間霊界と言えども地獄の程度の良いところで、労働霊界です。永遠に働き続けなければ衣食住が確保できない、自己中霊界です。

人の為に生きることが性分となった人だけがいけるところが天国です。
そういう意味では、自分に対する執着が完全に無くなった時求めないのにやってくるのが天国だともいえます。これは仏教と通じると思いますがいかがでしょうか?

逆説的ですが
>人の為というのも、結局は自分の為

という感覚が無くなった時、気づいたら結局は自分の為になっていたというのが、み言葉の説くところです。

先生の有名なみ言葉

「愛は与えて忘れなさい」

「過ぎてみれば愛であった」

これらは、食口であれば皆知っています。

焼きいも君は、愛を与えて忘れないで自分の居場所を確保する条件にしてしまったのです。これはサタンの思想です。

しかし、私も焼きいも君を攻めることはできません、まだまだサタン的思想に支配されています。


「善をなせ、悪をなすな」
というのは、善・悪の議論を生むので

私は、自己犠牲と奉仕の精神がサタンからの解放を生み天国人の道を開くとみます。

仏教用語かどうか知りませんが、「滅私奉公」を推奨したいです。

チェ・サンウさんは近所を、人に知られず早起きして掃除したことがありますか?

「陰徳積善」などと意識したらアウト!!ですが

純粋にやれば心のすがすがしさや、言い知れぬ喜びがこみ上げてきます。
だから、そういうことができる人は「その味」を知っているので続けることができるのだと思います。

私は、教会の修練会のそうじ時間に便器のシミを手の爪でこそぎとったことがあります、その瞬間、わけもなく涙が溢れて来た経験があります。たぶん一生忘れないでしょうね。

人間の行為も、ただ純粋に行えば本性が啓発され、作り事に対する反応としての感動ではなく、深い喜びに包まれると確信しています。

前にも書きましたが、仏教に詳しい以前の教会長の口癖は、

仏教の極意は「ただ念仏」と言っていました。

執着のない念仏でしょうね。

イエスも、幼子のようになりなさいと言いました。




Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/30 (Thu) 23:16:04

サライさん

>結びに教授が、この問題は一番難しい問題であり、各国の事情背景などによって解釈が違い、統一された見解はない。
しかし、お互いの意見を戦わせることの大切さや意義は大いにあると言うよな結論でおわりました。

お互いの意見を戦わせることが意義があり大切なのは、自分とは異なる意見を聞いて自分の意見を発展させるためですよね。でも、人間は自分の意見に固執するため異なる意見は受け入れないことが多いです。この掲示板でも統一信者同士で、お互いの統一原理理解が違うからケンカをしましたね。

これも、自分の理解に固執するからです。自分の理解とは主観だから主観に固執するからだと言えます。統一協会は統一された見解を出してこれらを解決しようとしているのですよね。その見解を出すための基本となるのが統一原理でいいですか?統一原理として話を進めます。

統一原理には信じる・信じないの要素が多くて、信じない人は納得できないです。信じない人が納得できない教えでは統一された見解は出せないと思います。そもそも、人間が主観に固執する生き物である以上、統一された見解を出そうとする文鮮明氏のアプローチは間違っていると思います。

統一された見解を出そうとする教えより、自分と異なる意見を受け入れるにはどのようにしたらいいかを説いている教えの方が建設的だと思います。そのためには、初期仏教がいう主観に固執する人間について学ぶことが、人類の問題の解決策になると思います。

ここで、統一原理を捨てるのではなく、統一原理を信じながら初期仏教の主観に固執する人間をアレンジしてみてはどうでしょうか?

>チェさんとの討論も答えにたどり着かないかもしれませんがお互いの意見を聞くと言うこと自体が尊く思われます。

そうですね。いずれにしろ両者が納得いく答えが出るとは思っていません。個人が納得すればそれで十分だと思っています。お互いに意見を聞き合って、自分の真理観の修正などができればいいと思います。

>こういう考えを持っている食口が多くいることを知っています。これこそ、教えを知っていながらサタンの罠にはまっていると言えます。焼き芋君を攻めるつもりはさらさらないですが、このような意識が自己中的組織を作ってしまう情的な核心となって、差別的な言動を生むと考えられます。自分は「アンパイ」を持っていると言うような意識です。。

やっぱり山芋君のような信者が、霊感商法を推進しているのでしょうか?

>本来命がけでなつみちゃんに尽くすべきだし、自分は地獄に行っても娘だけは天国に入れてあげたいと必死になるのが、真の父母の教えだし、神様の心情です。
中間霊界と言えども地獄の程度の良いところで、労働霊界です。永遠に働き続けなければ衣食住が確保できない、自己中霊界です。
人の為に生きることが性分となった人だけがいけるところが天国です。
そういう意味では、自分に対する執着が完全に無くなった時求めないのにやってくるのが天国だともいえます。これは仏教と通じると思いますがいかがでしょうか?

ここでいう中間霊界や地獄や天国があるのなら、誰でも天国行きを望みます。確かに自分に対する執着が完全になくなったときには、天国というか極楽浄土へ行けます。厳密に言うとキリスト教の天国と仏教の極楽浄土は違いますが。極楽浄土も浄土真宗の言葉で、初期仏教で極楽浄土に相当する所を何というかは分かりません。

>逆説的ですが
>人の為というのも、結局は自分の為
という感覚が無くなった時、気づいたら結局は自分の為になっていたというのが、み言葉の説くところです。
>先生の有名なみ言葉
「愛は与えて忘れなさい」
「過ぎてみれば愛であった」
これらは、食口であれば皆知っています。
焼きいも君は、愛を与えて忘れないで自分の居場所を確保する条件にしてしまったのです。これはサタンの思想です。
しかし、私も焼きいも君を攻めることはできません、まだまだサタン的思想に支配されています。

確かに、文鮮明氏はこのように説いていても、気付いたら自分の為ではなく、最初から自分の為と考える信者がいるような気もします。

>「善をなせ、悪をなすな」
というのは、善・悪の議論を生むので
私は、自己犠牲と奉仕の精神がサタンからの解放を生み天国人の道を開くとみます。
仏教用語かどうか知りませんが、「滅私奉公」を推奨したいです。

自己犠牲と奉仕をする目的は、サタンから解放されて天国人の道が歩めるからですか?

サタンが本当にいて天国人の道があるのなら、誰でもサタンから解放されたいし天国人の道を歩みたいです。そのために自己犠牲と奉仕が必要なら誰でもやると思います。でも、サタンも天国人の道も信じるか信じないかの問題です。客観性を持って誰でも納得できるようにサタンと天国人の道が説明できれば、誰でもやると思います。

>チェ・サンウさんは近所を、人に知られず早起きして掃除したことがありますか?
>人間の行為も、ただ純粋に行えば本性が啓発され、作り事に対する反応としての感動ではなく、深い喜びに包まれると確信しています。

まず、朝は眠いし最近は寒いからやりたくありません。みんな嫌がることです。この深い喜びとは達成感なのでしょうか?みんなが嫌がることを我慢してやった後の、達成感は最高です。

やった後に、「自分はなんていい奴なんだー」とか、「ああ、為に生きるを実践したぞー」という気持ちが湧いては来ませんでしたか?それですがすがしい気分になっていると。

ちょっと否定的なことを書きましたが、サライさんのその思いはサライさんが感じたことだから、この思いそのものは誰も否定できません。尊重します。

>前にも書きましたが、仏教に詳しい以前の教会長の口癖は、
仏教の極意は「ただ念仏」と言っていました。
執着のない念仏でしょうね。
イエスも、幼子のようになりなさいと言いました。

念仏は浄土真宗ですよね。浄土真宗も初期仏教の長老に言わせれば、仏教を誤って解釈しているそうです。一神教の神に似た変なものを作りだしたと。確かに、初期仏教には一神教の神的存在は出てきません。阿弥陀仏は神的存在で、信じるか信じないです。そして念仏は阿弥陀仏を信じて唱えるものです。

しかし、初期仏教の本を読むと証明不可能なものを信じて実践するようなことは書かれていません。転生輪廻は信じる要素ですが、お釈迦様は転生輪廻を信じない人も実践できるように説いたし、僕も信じていません。信じてはいないけど、共感できることは多いです。初期仏教から仏教の極意は、念仏ではなく「無常」を客観的に観察することだと思います。言葉にすれば単純ですが、自分の心を客観的に観察することは難しいです。

Re: 初期仏教について語ろう! - サライ

2010/12/31 (Fri) 10:12:47

チェ・サンウさん

>統一原理には信じる・信じないの要素が多くて、信じない人は納得できないです。信じない人が納得できない教えでは統一された見解は出せないと思います。そもそも、人間が主観に固執する生き物である以上、統一された見解を出そうとする文鮮明氏のアプローチは間違っていると思います。

原理講論の総序の最後に「ここに発表するのみ言葉は真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したに過ぎない、時が至るにしたがって、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」
とあります。

世界の中心宗教がユダヤ・キリスト教を中心とした聖書にまつわる宗教であることは事実として間違いないと思いますがいかがでしょうか?

統一教会もキリスト教の摂理的失敗を背景として出てきた団体ですが本来原理はキリスト教徒に最初に伝えられるべきものでした。ですからクリスチャンにとっては原理講論は衝撃的内容であり正当性を主張する既成教会の猛反対を受けました。

本来はキリスト教のトップ層に語られていく内容でした、当時の韓国のトップはクリスチャンでしたから。
しかしその不信により、クリスチャンも含め私のように聖書を読んだこともないような宗教的レベルの低い者たちにみ言葉を伝えざるをえなかったと言うのが、原理観だし事実です。

ですから、本来は、統一された見解などと言うものを出す必要もなかったのです、第二次大戦直後の世界情勢を見れば明らかです。絶大なキリスト教パワーがありました。

その後ソ連・中国の台頭により共産主義が世界戦略を立て、局地的な思想を中心とした戦争が頻発してきましてね、ベトナム戦争がその代表でしょうか。これは、第二次大戦後の戦後処理、国連常任理事国にソ連・中国が入ったことがそもそもの失敗の始まりでした。多くの粛清と戦争で命が奪われていきました。これも事実です。イスラエルの問題もここと関係がありますね。いまだに悲惨な国です。

今我々のグループは、国連の刷新運動を中心に世界的運動をしています。

ゼロから出発した統一教会が国連の施設で合同結婚式をやり1945年当時の段階をすでにこえました。
これも事実です。
http://www.chojin.com/history/ungoukon.htm

これまでは、チェさんが言われるように

>統一原理には信じる・信じないの要素が多くて、信じない人は納得できないです

の要素が多かったし、信じる人しか救いの対象にはなれませんでした。
が今からは、信じるということの以前にみて聞いて知る事実が多くなっていくはずです。

多くの誤解と反対の中やってきた実績が実を結び始めてきました。

見解の一致などを見出す余裕などなかった・・というのが事実です。

仏教・儒教・イスラムとの和合についても私の知らない部門でやっているはずです。学術研究には時間や精査にとても時間がかかるものだと思います。


>やっぱり山芋君のような信者が、霊感商法を推進しているのでしょうか?

指導的立場に立っていれば危ないと思います。

>確かに、文鮮明氏はこのように説いていても、気付いたら自分の為ではなく、最初から自分の為と考える信者がいるような気もします。

これが、教会内でよく言われる「ご利益信仰」です。

入教して最初の段階はこれでもいいのですが、神様やみ言葉が解るにつれて、この段階から成長しなくては、クリスチャンの神霊基準や僧侶の神霊基準には到底及びません。み言葉はその先の基準を要求しているのに・・・。

蕩減法は、仏教で言う「回向」という考え方に似ています。私が積んだ徳の報いは私は要りません、先祖に・仏に・苦しむ人の為に回してください、ということでしょうか。ご利益信仰は日本では根強いですね。なかなか抜けません。願いが叶えば喜びますが、叶わなければ神様のせいにする。

これは、霊感商法とその訴訟問題の根底にある根深いものだと考えています。


>客観性を持って誰でも納得できるようにサタンと天国人の道が説明できれば、誰でもやると思います。

そうですね。
ではこれまでの多くの宗教は同じ事を言っていますが誰でもやっているでしょうか?
答えは火を見るより明らかです。

それは、サタンは実証不可能な霊界の存在だからです。

こうなると、信じるか信じないの争いないなります。

前にもENOCKさんと一緒に議論したように、先に信じた人間が天国を創って見せ、原理の正しさを立証するしかないでしょうね。こういう切羽詰った事情を抱えながら、信じる人を探していくのが伝道であり神様の業です。

>やった後に、「自分はなんていい奴なんだー」とか、「ああ、為に生きるを実践したぞー」という気持ちが湧いては来ませんでしたか?それですがすがしい気分になっていると。

こうなったらサタン圏です、たぶん霊感商法の間違いはこういう感覚に麻痺した人がやってしまったのだと思います。

ただ感謝! のみです

私は登山が好きで若い頃はよく山に登りました。
頂上にたったときは達成感があります、喜びがあります。
しかしこれとは質が違います。言葉では表現できません。

>「無常」を客観的に観察すること <

執着からの解放

生老病死、(四苦八苦)からの解放

幸福

こんな流れだと理解してよいですか?

この辺はかんごさんのスレでやりましょう!



>自分の心を客観的に観察することは難しいです。

TPOによって常に揺れ動くこころは、とどまることを知りませんからね。

ただ良心といった場合、呵責と言う力が働き心の苦しさや痛みを感じます。

この良心作用の主体が神だと原理で説きます。
こころを俯瞰する軸が良心だとわたしは思います。

良心から外れた言動、考えをした時、「気づく」これが客観的に観察することであるように思います。善悪の分岐点ともいえると思います。

凶悪犯罪者が自首してくる事実は私たちも知っています。
この起源、そうさせる力の根源は何だと思いますか。

また見えない「こころ」も「その力」の存在も事実としてチェ・サンウさんは認めますか?

それとも「わからない」ですか?

Re: 初期仏教について語ろう! - チェ・サンウ

2010/12/31 (Fri) 22:36:14

サライさん

>原理講論の総序の最後に「ここに発表するのみ言葉は真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したに過ぎない、時が至るにしたがって、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」
とあります。
世界の中心宗教がユダヤ・キリスト教を中心とした聖書にまつわる宗教であることは事実として間違いないと思いますがいかがでしょうか?

確かにそうですね。あとイスラム教も入ります。世界の3大宗教というと、キリスト教、イスラム教、仏教なので聖書が関わる宗教が中心宗教といえます。聖書にまつわる宗教が中心宗教なら、エホバの証人やモルモン教も中心宗教ということになります。

ここで、じゃが芋君や北上君なら、「どうしてエホバ、モルモンが中心宗教でなくて統一協会が中心宗教なの?」と聞くところですが、サライさんの場合は、「自分が統一協会が中心宗教と感じたから」と答えるだけで十分です。

選択として、聖書にまつわる宗教のどれかを信じる他に、これらの宗教は信じないで仏教的に無常、この世の出来事を客観的に観察する生き方も選択肢に入ります。選択の決め手はどれが建設的かです。

>統一教会もキリスト教の摂理的失敗を背景として出てきた団体ですが本来原理はキリスト教徒に最初に伝えられるべきものでした。ですからクリスチャンにとっては原理講論は衝撃的内容であり正当性を主張する既成教会の猛反対を受けました。
本来はキリスト教のトップ層に語られていく内容でした、当時の韓国のトップはクリスチャンでしたから。
しかしその不信により、クリスチャンも含め私のように聖書を読んだこともないような宗教的レベルの低い者たちにみ言葉を伝えざるをえなかったと言うのが、原理観だし事実です。
ですから、本来は、統一された見解などと言うものを出す必要もなかったのです、第二次大戦直後の世界情勢を見れば明らかです。絶大なキリスト教パワーがありました。

これらのことは信じるか信じないの問題です。例えば、キリスト教が失敗したかどうかも統一原理を最初にクリスチャンに伝えるはずだったかどうかもです。ここには何の客観性もありません。しかし、信じることは自由です。信じた結果建設的かどうかが問題です。サライさんとENOCKさんは違いますが、少なくとも摂理の為の犯罪や殺人を肯定する人が信じることは建設的ではないです。

本来、統一された見解が必要ないということは、元々人間には統一された見解が与えられていたということですか?堕落によって思想がバラバラになり、統一された見解が必要になったと。バラバラな思想が出てくるのも人間が主観に固執する生き物だからです。

ここもどちらも証明不可能なので、最初から人間には統一された見解があって堕落によってバラバラになったか、最初からバラバラなのかはどちらが建設的かで決まると思います。

もともと統一された見解があると説くと、人間は主観に固執する生き物だから、統一された見解に賛同できない人も出てきます。一方、最初からバラバラと説くと、「異なる見解も尊重しましょう」とする精神が生まれます。しかし、人間は主観に固執する生き物だから、異なる見解も尊重できません。ここで、初期仏教が力を発揮すると思います。

>その後ソ連・中国の台頭により共産主義が世界戦略を立て、局地的な思想を中心とした戦争が頻発してきましてね、ベトナム戦争がその代表でしょうか。これは、第二次大戦後の戦後処理、国連常任理事国にソ連・中国が入ったことがそもそもの失敗の始まりでした。多くの粛清と戦争で命が奪われていきました。これも事実です。イスラエルの問題もここと関係がありますね。いまだに悲惨な国です。
今我々のグループは、国連の刷新運動を中心に世界的運動をしています。

刷新運動とは、世界人口の思想を共通の統一された見解にすることでしょうか?

>これまでは、チェさんが言われるように
>>統一原理には信じる・信じないの要素が多くて、信じない人は納得できないです
>の要素が多かったし、信じる人しか救いの対象にはなれませんでした。
が今からは、信じるということの以前にみて聞いて知る事実が多くなっていくはずです。
多くの誤解と反対の中やってきた実績が実を結び始めてきました。
見解の一致などを見出す余裕などなかった・・というのが事実です。
仏教・儒教・イスラムとの和合についても私の知らない部門でやっているはずです。学術研究には時間や精査にとても時間がかかるものだと思います。

それは、統一原理が客観性を持ち科学的になるということでしょうか?

>>客観性を持って誰でも納得できるようにサタンと天国人の道が説明できれば、誰でもやると思います。
>そうですね。
ではこれまでの多くの宗教は同じ事を言っていますが誰でもやっているでしょうか?
答えは火を見るより明らかです。
それは、サタンは実証不可能な霊界の存在だからです。

確かにこれまでの多くの宗教は言ってきています。しかし、やらない人がいるのはこれらの宗教の言うことに客観性がないからです。

>こうなると、信じるか信じないの争いないなります。
前にもENOCKさんと一緒に議論したように、先に信じた人間が天国を創って見せ、原理の正しさを立証するしかないでしょうね。こういう切羽詰った事情を抱えながら、信じる人を探していくのが伝道であり神様の業です。

そうですね。信じるか信じないの問題だから誰かができることを示すしかありません。しかし、この掲示板で見られたように、真の愛の統一協会、宗教の統一と言いながら、信者同士でケンカをしていたら説得力はありません。原理が言う完成人間に自分はなれるのか、よく内省することが大事です。仏教はなれない人の為に説いてあります。

>私は登山が好きで若い頃はよく山に登りました。
頂上にたったときは達成感があります、喜びがあります。
しかしこれとは質が違います。言葉では表現できません。
>「無常」を客観的に観察すること <

執着からの解放

生老病死、(四苦八苦)からの解放

幸福
こんな流れだと理解してよいですか?
この辺はかんごさんのスレでやりましょう!

そうです。でも、僕は無常が観察しきれていません。

>また見えない「こころ」も「その力」の存在も事実としてチェ・サンウさんは認めますか?
それとも「わからない」ですか?

心は見ることはできませんが、我々は時には喜び、時には泣き、時には悲しんでいます。だから、心の存在は事実だと思います。「その力」の意味がちょっと分かりませんが、犯罪者に自首させる力と解釈すると、自分にとって都合の悪い状況には追い込まれたくない欲だと思います。

人間は誰でも自分にとって都合の悪い状況に立ちたくないです。だから、犯罪者も良心以上に、自分を追い込む状況に立たないために自主するのだと思います。確かに、そこで自首しておけば自首しないで見つかった場合より少しは良い状況になります。実際、自首しない犯罪者がいるということから、良心作用によって自主するというより、欲から自首すると考えた方が妥当な気もします。

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