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無題 - トルージェ

2010/11/26 (Fri) 18:39:20

原理のどこらへんが間違っているのか具体的な部分を教えてください。

Re: 無題 - チェ・サンウ

2010/11/27 (Sat) 23:56:30

トルージェさん

はじめまして。

>原理のどこらへんが間違っているのか具体的な部分を教えてください。

僕は統一原理のことはあまり詳しくないけど、反対牧師の先生に教えてもらった個所を示します。

「無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、『神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない』(ロマ一・20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。」

この箇所の、聖書を引用した「したがって、彼らには弁解の余地がない」について、聖書の方を見ると、前後はこのようになっています。

「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 なぜなら、神について知りうる事がらは、『彼ら』には明かであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、『彼ら』には弁解の余地がない。』なぜなら、『彼ら』は神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。『彼ら』は自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。」

ここで「彼ら」というのは、偶像崇拝をしている「彼ら」と読めます。でも、原理講論の方は被造世界が神様の姿を表現していて、このことに対して「弁解の余地がない」と言っているように思えます。原理講論の「彼ら」は被造世界を言っていて、聖書は偶像崇拝する人を「彼ら」と言っています。「彼ら」の指している内容が聖書と原理講論では違っていてもいいのでしょうか?

何のための引用なのでしょうか?聖書の前後関係を無視して、ただ、文字面だけ合っていればいいというのなら、それこそデタラメです。

でも、原理講論の間違いを示しても信者は屁理屈を考えるから、原理講論の間違いよりも、まず、自分の汚い心が無くせるのかをよく内省してください。そして、統一原理は世間の悲しい出来事の原因を人間始祖の不倫が原因と言っていますが、そもそも人間は皆汚い心を持っていて自分の欲を優先させる生き方をしています。そのことが根本原因です。そして、どうして人間は皆汚い心を持っているのか?答えは、「分からない」が一番妥当だと思います。統一原理の一番の間違いは、分からないことに対して、無理やり証明不可能な答えを出して分かったつもりになっているところだと思います。

Re: Re: 無題 - トルージェ

2010/11/28 (Sun) 23:28:51

なるほど。方にどこか「分からない」部分は無いのですか?その原理の内容を分析してみたいです。

Re: 無題 - チェ・サンウ

2010/11/29 (Mon) 00:28:26

トルージェさん

>なるほど。方にどこか「分からない」部分は無いのですか?その原理の内容を分析してみたいです。

「方にどこか分からない部分」というのは、どういう意味ですか?

Re: Re: 無題 - サント・ノール

2010/11/29 (Mon) 00:32:47

漢字ミスです。方は他 です

無題 - サント・ノール(トルージェ)

2010/11/29 (Mon) 17:27:57

注:他の掲示板で良いペンネームがあったので変えましたがやっぱりだめですね。それを後々思ったのでトルージェに戻します。

Re: 無題 - トルージェ

2010/11/30 (Tue) 18:19:34

チェ サンウさんへ

こういう掲示板に不慣れなもので、いろいろと非常識なことをすいませんでした。
統一教会や原理といっても誤解も多いので、中立の観点から見てもらうためにこのスレをつくりました。自分も中立の観点で。

Re: 無題 - かんご

2010/12/24 (Fri) 00:24:18

  トルージェさんはじめまして
  サンウさん お久しぶりです。

 おそらく半月くらいは暇ですので又参加しようと思っています。
 このスレでサンウさんが反対牧師に聞いた話には穴がありまくりなので反論しておきましょう。

  サンウさんこのように言います。

≪僕は統一原理のことはあまり詳しくないけど、反対牧師の先生に教えてもらった個所を示します。

「無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、『神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない』(ロマ一・20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。」

この箇所の、聖書を引用した「したがって、彼らには弁解の余地がない」について、聖書の方を見ると、前後はこのようになっています。

「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 なぜなら、神について知りうる事がらは、『彼ら』には明かであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、『彼ら』には弁解の余地がない。』なぜなら、『彼ら』は神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。『彼ら』は自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。」

ここで「彼ら」というのは、偶像崇拝をしている「彼ら」と読めます。でも、原理講論の方は被造世界が神様の姿を表現していて、このことに対して「弁解の余地がない」と言っているように思えます。原理講論の「彼ら」は被造世界を言っていて、聖書は偶像崇拝する人を「彼ら」と言っています。「彼ら」の指している内容が聖書と原理講論では違っていてもいいのでしょうか?

何のための引用なのでしょうか?聖書の前後関係を無視して、ただ、文字面だけ合っていればいいというのなら、それこそデタラメです。≫


 ということですが、いくつかの点において反論しておきます。

 まず第一に、サンウさんが教えてもらったという反対牧師は、『新約聖書』の成立について、まったく何も知らないと言う事です。

  例えば、新約のマタイ伝は「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。」と言うイザヤ書を引用して、マリアがイエスを懐胎した事を預言しているのだと述べています。
  しかしこの成句の引用には甚だ問題があり、イザヤはこれをマリアの処女受胎を指して預言したのではなく、前後の関係から見てもアハズ王との関連から預言したのでした。しかし、マタイ伝の作者はこの預言の前後関係をまったく無視して、強引にイエスに関する預言だとしたのです。

 新約聖書の旧約聖書からの引用の全てはかなり強引であり、前後の関係をまったく無視したものでした。それゆえに当時のユダヤ人の中には、「ナザレのイエス派の聖書引用はデタラメである」と非難する者も多くいたのです。(こうした事は聖書学を学んだ者なら知っているはずです)
 今日反対牧師が「統一原理の聖書引用がデタラメである」と非難するのと同じであり、2000年前と同じ事が繰り返されていると言う意味でむしろ文先生と統一原理の正当性を証明しているのです。

               啓示について
  さてここで啓示について、正しい見解を述べておきましょう。
  啓示というものは最初から前後の関係などあまり関係ありません。ルターは「信仰のみ」と言う啓示を受けましたが、これが宗教改革のスローガンとして使われるとはパウロも思ってもいなかったでしょう。ルターにおける「信仰のみ」と言う言葉の意味合いが、パウロと異なっていたとしても何の問題もないのです。
 私はクリスチャンであった時代によく祈り求めましたが、神様が答えてくださった体験は10回や20回ではなく、数えられません。その神様との対話の際に神様はしばしば『聖書』を使って答えられましたが、そのさい前後の関係などまったく関係ありませんでした。又神様はしばしば別の書物をも使われました。神様が仏教の経典に導かれたので私は仏典5000巻余をみな読みました。また神様がユング心理学に導かれたので私はそれを学びました。
 さらに夜の夢や白昼の幻の中で答えが示される事もあり、他人の口を通して答えられる事もあります。
 
 さてせっかく啓示、すなわち「神との一問一答の対話」について書いているのですから、この問題を別のスレを立てて論じる事にしましょう。
 そこでチェ・サンウさんにお願いがあります。あなたに「統一教の聖句引用はデタラメだ」と教えた反対派の牧師をこのサイトで私の立てるスレに参加させてください。第二次大戦前中神社を参拝し、アマテラスの大麻を礼拝していた日本のキリスト教信徒は「地の塩」としての存在価値を失い、投げ捨てられて今日にいたっている。その責任は日基の会長、富田よりも賀川豊彦にある。しかしそろそろ生き返らなければならない時を迎えている・・・。

 

Re: 無題 - チェ・サンウ

2010/12/24 (Fri) 22:04:47

かんごさん

>さてせっかく啓示、すなわち「神との一問一答の対話」について書いているのですから、この問題を別のスレを立てて論じる事にしましょう。

でも、僕は「啓示」、「神との一問一答」のことは分かっていません。無知なりに議論できるところがあったら参加します。

>そこでチェ・サンウさんにお願いがあります。あなたに「統一教の聖句引用はデタラメだ」と教えた反対派の牧師をこのサイトで私の立てるスレに参加させてください。第二次大戦前中神社を参拝し、アマテラスの大麻を礼拝していた日本のキリスト教信徒は「地の塩」としての存在価値を失い、投げ捨てられて今日にいたっている。その責任は日基の会長、富田よりも賀川豊彦にある。しかしそろそろ生き返らなければならない時を迎えている・・・。

伝えておきます。

>新約聖書の旧約聖書からの引用の全てはかなり強引であり、前後の関係をまったく無視したものでした。それゆえに当時のユダヤ人の中には、「ナザレのイエス派の聖書引用はデタラメである」と非難する者も多くいたのです。(こうした事は聖書学を学んだ者なら知っているはずです)
 今日反対牧師が「統一原理の聖書引用がデタラメである」と非難するのと同じであり、2000年前と同じ事が繰り返されていると言う意味でむしろ文先生と統一原理の正当性を証明しているのです。

この書き方だと、「旧約聖書が正しいの?」と言いたくなってきます。多分、旧約聖書が正しいかどうかも最終的には主観になると思います。

今サライさん、ENOCKさんと初期仏教について議論しています。聖書の引用句がデタラメかどうかを議論するより、初期仏教について語った方がかんごさんにとっても建設的だと思います。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3253032

僕は仏典は、1冊も読んだことがないし、市販の本を読んだ程度の知識です。仏典を5000冊読んで得られた知見について教えてください。

Re: 無題 - かんご

2010/12/27 (Mon) 15:52:20

   
      サンウさんへ

 確かにいきなり「神との対話」と言うテーマは、コメントできる人がいないかもしれません。仏教から真理への道のりを示した方が日本人的には近道かもしれない。
 ひとつスレを立てておこうと今思いました。
 「仏教の真髄、眼目」と言う題です。

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