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仏教の真髄・眼目 - かんご

2010/12/27 (Mon) 16:40:27

仏教の真髄、眼目
 
  私達は目に見える小さなものには、共通の見解を持ちやすいのです。今私の目の前に銀色のコップがありますが、私が「ここに銀色のコップがあります」と言ってそれを見せれば、たいていの人は「そうですね」と言うと思います。中には「いいやそれは銀色じゃなくてオパール色だ。コップじゃなくて花瓶だ」と言い張る独自の感性の方もいらっしゃるかも知れませんが、それはそれで貴重であり、大差ないので善しとします。
 しかしこれが目に見えないものであるとか、目に見えても大きなものになると、共通の見解に至るのはとても難しいのです。
 仏教とは何か?
 仏教の本質、真髄、眼目とは何か?
と言う議題に関しても共通の見解に至るのは難しいでしょう。しかしだからと言って何も表現しないとしたら永遠に通じ合う事はないのですから、それなりに努力はして置くべきです。
 
  仏教とは仏の教えの事です。仏教の真髄とは、その教えの中で大切なのは何か?と言うことです。
 私はそれを「善をなせ、悪をなすな」だと言います。

〔善を為せ、悪を為すな〕
と言う言葉は5歳の幼児でも知っている言葉です。しかし50歳を越えても実践は難しい。
私達が誰でも、何となくこの言葉を知っているのは、遠い昔に――まだ日本民族が幼い頃に――仏教が輸入され、民族の無意識にこの言葉が刻みこまれたからです。
 最初に日本でこの言葉を使ったのは聖徳太子でした。太子は臨終の床で息子の山背にこの言葉「諸悪幕作、諸善奉行」(もろもろの悪をしてはならない、全ての善を行い、心を清めよ、これが仏の教えである)を伝えました。
 七仏通戒掲(しちぶつつうかいげ)という。
 これは、過去七仏が共通して保ったといわれる掲文で、仏教思想を一掲に要約したものである。
 
 最初に太子のセリフを知った時、私は震えました。太子の宗教的天才がよくわかったからです。仏教が伝来してわずか70年、そこまで到達しえたとは――感動と驚きが私を震えさせた。後の世の日蓮上人、そして昭和の菩薩・キリスト者賀川豊彦に出会った時と同じ感動と驚きが私をつつんでいた。太子を日本仏教の父と呼ぶのもうなずける。
            
            善と悪の業
 釈迦の悟りの中には「善業善果、悪業悪果、非善非悪業非善非悪果」と言うのがあります。「善を為せば善い結果が生じ、悪を為せば悪い結果が生じ、善くも悪くもない事を為せば善くも悪くもない結果が生じる」と言う意味です。原始仏典の中では例えば伝道中、村人に石を投げられたのは、釈迦の前世で悪を為したのが今世に悪の結果として現れたのだと説明しています。
             因縁生起説
 例えば、あなたが何か善い事をした。しかしその結果はすぐに現れません。
 釈迦によれば、それは因が縁を得て初めて現れるのだと言います。これを因縁生起説と言います。
 (私たちがいくら蕩減条件を立てても、なかなか成果が得られない事もありますが、それは無駄にはならず、いずれ機縁が満ちた時に果実が得られるのだとも言えます。)

              善悪の理法
 つまりこの宇宙には「善悪の理法」があって、善人にも悪人にもそれに見合う報いがあるのだという。
 それを釈迦は悟ったのです。

 これは三宝印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)の悟りよりもはるかに重要です。なぜなら仏教以外の高等宗教も同じ事を見出しているからです。中国の儒教――啓天思想家は「天網恢恢租にして漏らさず」と述べて「天はどんな小さな善も悪も見逃さず、報いを与える」と述べている。それはユダヤ教、キリスト教、イスラム教においても同じです。「神は人の善悪の行動を公正に裁かれる方である」と旧約・新約聖書の全体で述べている。
 つまり釈迦が悟った「善悪の理法」は全ての宗教によって「正しい」と肯定され、価値あるものと見なされるのです。そして当然の事ながら統一原理においても正当に評価されます。原理のテーマには善と悪と言うテーマが色濃く含まれているからです。

 「善をなせ、悪をなすな」
という七仏通戒掲こそ仏教の真髄・眼目であると私は証言します。

 

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2010/12/28 (Tue) 22:26:53

かんごさん

>仏教とは仏の教えの事です。仏教の真髄とは、その教えの中で大切なのは何か?と言うことです。 私はそれを「善をなせ、悪をなすな」だと言います。
「善をなせ、悪をなすな」
という七仏通戒掲こそ仏教の真髄・眼目であると私は証言します。

仏教の真髄が「善をなせ、悪をなすな」なのですか?これはかんごさんの見解なのですね。なんか僕が考える仏教の真髄とは微妙に違いますが、僕の考える仏教の真髄からも「善をなせ、悪をなすな」が導けます。

僕が考える仏教の真髄は、「無常」です。そして、「無常を客観的に観察せよ」いいかえると、「出来事をありのまま観察せよ」です。

我々は欲の塊で常に汚いことばかり考えています。まず、自分の心はコロコロと変わるから無常です。客観的に観察すると、気持ちはコロコロと変わって汚いことばかりで自分の欲しか考えていない自分が見えてきます。我々は自分が不利になるような状況には立ちたくないです。

>釈迦の悟りの中には「善業善果、悪業悪果、非善非悪業非善非悪果」と言うのがあります。「善を為せば善い結果が生じ、悪を為せば悪い結果が生じ、善くも悪くもない事を為せば善くも悪くもない結果が生じる」と言う意味です。原始仏典の中では例えば伝道中、村人に石を投げられたのは、釈迦の前世で悪を為したのが今世に悪の結果として現れたのだと説明しています。

善業善果、悪業悪果は言いかえると、善因善果、悪因悪果ですね。このことは、実際いいことをやって悪い結果が現れたり、悪いことをやっていい結果が返ってくるような場合もあるから証明不可能だけど、善業善果、悪業悪果と考えることは建設的です。

ここで、自分が不利になるような状態を回避するにはどうしたらいいかを考えると、「善を為せば善い結果が生じ、悪を為せば悪い結果が生じ、善くも悪くもない事を為せば善くも悪くもない結果が生じる」ということから、「善をなせ、悪をなすな」が導けます。

ところで、文鮮明氏の家庭は、孝進氏が麻薬をやったり、蘭淑さんと離婚したり、ヘリコプターが墜落したりと災難続きですね。このことも、仏教的に考えると、文鮮明氏や孝進氏が悪を行った結果になるといえそうです。

サライさん

以上のことより、文家の不祥事は文家の責任になります。サライさんはいろいろと説明をしてくれましたが、この説明内容は信じるか信じないかの問題です。直感的に他人がやった罪の責任の所在を自分にすることは、建設的でないと思います。理想家庭の教えということは信じても、文家の責任を自分の責任にすることは、自分にとっても文家にとっても建設的ではありません。ENOCKさんによると、文家は完成してないということです。完成してないということは文家の人間は自分の身に起きた不幸を信者のせいにすると思います。自分の身に起きた不幸なのに、「俺たちが苦しいのは、食口が不信仰をするからだー!」って思われていい気分しますか?サライさんは何も悪くありません。文家の不祥事は自業自得です。

Re: Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2010/12/29 (Wed) 00:14:36

サンウさん 仏教には「衆生病む時菩薩病む」と言う言葉があります。 文先生の真の家庭で起こる事はまさにそう言う事です。

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2010/12/29 (Wed) 23:10:32

かんごさん

>サンウさん 仏教には「衆生病む時菩薩病む」と言う言葉があります。 文先生の真の家庭で起こる事はまさにそう言う事です。

この言葉は、維摩居士の言葉みたいですね。

http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage103.htm

文家がどうして維摩居士になるのですか?このこともかんごさんが、サライさん、ENOCKさんのような信じ方で統一原理を信じているのなら証明はする必要はありません。

ちょっとこの言葉を調べてみたけど、たとえ話っぽいから衆生が病気になることが原因で、本当に菩薩が病気になるわけではないようです。

>出典である『維摩経』の主人公は、維摩居士という在家の篤信の仏教者である。
 この一節は維摩居士が病気のときお釈迦様に見舞いに遣わせた文殊菩薩に答えた言葉である。「一切衆生病むをもって、是の故に我も病むなり、もし一切衆生の病滅せば、すなわちわが病も滅せん、(中略)もし衆生、病を離るることを得ば、すなわち菩薩もまた病無かるべし」人々の病の苦しみ悩みを知るためには菩薩が自分もまたその苦しい病いの状況に身をおいて共に悩み苦しむ、つまり「同悲・共苦」の精神をあらわしたものである。

http://subwww.bukkyo-u.ac.jp/view/dsc_tpc.php?id=2928&place=word

そもそも、この言葉は自因自果に反するからたとえ話と考える方が自然だと思います。

同非、劫苦の精神で麻薬をやったり離婚するのでしょうか?でも、これを信じる・信じないは自由です。霊感商法等、現在の統一協会に問題を感じているのならば、これを信じることは尊重します。

Re: Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2010/12/30 (Thu) 00:56:10

サンウさん
「自因自果じゃないから、例え話ー」 とは限りません。 例えば、子供が重い病になった。母親は看病しながら、「神様、どうかこの子の命をお救いください。代わりに私の命をさしあげます」と祈りました。
すると子供は回復したけれど、母親は同じ病に倒れ、亡くなりました。
この話しは実話です。その子供が私ですから。
これを母子協助と言います。 そして人は必ずしも、自因自果と限らないと言う事です。
「善悪の理法」については御理解いただけたようですから、次に行きます。

この宇宙と人間の世界には「ひとつの集団の中で生じた矛盾は、その中で最も清い者が負う」と言う法則もあるのです。 だから「衆生病む時菩薩病む」のです。 この話しはユング派心理学者にとっては常識みたいなものです。 私達がカウンセリングとかするさいによく出会う現象ですから。例えば家庭の問題を幼い子供が負って症状が出ている、と言う症例報告がなされています。 サンウさんもユングを学んでみたらいかがですか? 今日アメリカ合衆国では心理学の主流になりつつあります。認知心理学は退屈でしょう。私なら断然ユングか宗教心理学を学びます。

そして最後にー。わざわざ『維摩経』を調べられたのは決して無駄にはなりません。それは仏教流に言えば小さな善行です。真理への情熱はいつだって神様が義とされるものなのです。








Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2010/12/30 (Thu) 23:40:33

かんごさん

>「自因自果じゃないから、例え話ー」 とは限りません。

例え話でなくても、因果の道理には反しているような気もします。

>例えば、子供が重い病になった。母親は看病しながら、「神様、どうかこの子の命をお救いください。代わりに私の命をさしあげます」と祈りました。
すると子供は回復したけれど、母親は同じ病に倒れ、亡くなりました。
この話しは実話です。その子供が私ですから。
これを母子協助と言います。 そして人は必ずしも、自因自果と限らないと言う事です。
「善悪の理法」については御理解いただけたようですから、次に行きます。

客観性は無いですよね。客観性があれば、この世で人間が自分の意思で人の命に関与できることになります。この世の親は自分の子供が死にかけたら、誰でも自分の命よりも子供の命を助けてほしいと思うと思います。だから、子供が死ぬ出来事は親が代りに死んでいるけど、実際子供が死ぬ出来事は多いです。

でも、人間そのように思いたいこともあります。僕も事故で死にかけたときに、家族が「亡くなった祖母があの世から僕を追い返してくれたんや。『お前が来るにはまだ早い』っておばあちゃんが言ったんや」と言いました。でも、僕があの世の入り口で祖母に会ったかどうかは記憶がないし、例え会っていても客観性がありません。でも、僕はあの時あの世の入り口で祖母に会ったと信じたいです。いつもは、「分からない」という立場を取る僕が唯一信じていることです。お母さんへの思いは大切にしてください。

>この宇宙と人間の世界には「ひとつの集団の中で生じた矛盾は、その中で最も清い者が負う」と言う法則もあるのです。 だから「衆生病む時菩薩病む」のです。 この話しはユング派心理学者にとっては常識みたいなものです。 私達がカウンセリングとかするさいによく出会う現象ですから。例えば家庭の問題を幼い子供が負って症状が出ている、と言う症例報告がなされています。 サンウさんもユングを学んでみたらいかがですか? 今日アメリカ合衆国では心理学の主流になりつつあります。認知心理学は退屈でしょう。私なら断然ユングか宗教心理学を学びます。

そうなのですか?僕の専門は認知心理学というか認知科学で、臨床心理をやっている人や教育心理をやっている人も研究室にいました。ちなみに僕の主領域は教育心理です。ユング心理は臨床心理の一領域ですよね。勉強しておきます。

>そして最後にー。わざわざ『維摩経』を調べられたのは決して無駄にはなりません。それは仏教流に言えば小さな善行です。真理への情熱はいつだって神様が義とされるものなのです。

ありがとうございます。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2010/12/31 (Fri) 10:38:32

かんごさん

私は心理学は学んだことがありませんが

一時はやった「鏡の法則」のカウンセリング指導はユングの流れをくむものなのでしょうか。

子どもの問題が母親の父との関係が改善されることによって解決されていくという内容だったと思いますが。
実際的には母親と息子の接触はほとんどなく、父・夫に対する姿勢が変わった時改善されているので、科学的にはどのような説明になるのか気になっていました。

教会では、先祖や霊界、心情や因縁などをみつめて解決の道を探っていくと言うことをやっていますが、
心理学ではそのような非科学的考えは受け入れられないはずなので・・・疑問でした。



Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2010/12/31 (Fri) 19:40:08

    サライさん

 「鏡の法則」は誰が作ったか私は知りません。気にとめて置いてその内調べてみましょう。
 
 <子どもの問題が母親の父との関係が改善されることによって解決されていくという内容だったと思いますが。
実際的には母親と息子の接触はほとんどなく、父・夫に対する姿勢が変わった時改善されているので、科学的にはどのような説明になるのか気になっていました。>
 
 その現象自体ありえますが、それを説明する理論はないと思います。

 ある人が病んだ、またある人が非行したとしても、その人自体の責任と言うよりも、その人を含む集団の問題が解決すれば解決する事があるものです。
 
 さて少しユングの紹介をしておきましょう。
 ユングは彼自身が言っているように預言者の系列に入る人です。
 この時代(19世紀後半~20世紀前半)には他にもA・トインビー(英国)やf・オコナー(米)などの預言者的使命をもって生まれているものがいます。
 歴史学者トインビーは言うまでもなく『世界の歴史』を著して歴史の反復を唱えた人です。「歴史は繰り返す」と言う有名な言葉は誰でも知っていますが、その功績はおおむねトインビーにあります。
 f・オコナーはアメリカの文学作家ですが、米国南部を講演して神と悪魔の実在を説きました。
 彼女のような人がいたから南部には信仰が残り、レーガンのような人が生まれる下地ができたのです。

 ユングも20世紀初頭から米大学各地で講演して回っています。その頃すでに有名な精神科医であった彼の講演には人があふれかえっていたと言う。講演の題名は「唯物論の危険性」と言うものでした。それは精神科医として彼の経験にもとずいた唯物論の問題をテーマにその危険性を訴えたものです。
 
 彼らに共通しているのは全員が自分が預言者である事を感じていたと言う事です。

 ユング心理学は統一教会とそれなりの縁があります。
 1980年代アメリカの強制改宗訴訟の時、心理学協会を代表して「洗脳理論」を否定した法廷助言書を提出したのがユング派でした。

 ユングの理論を書くつもりだったけど、やめました。分かりやすいのが一つもない。集合無意識説や元型(アーキタイプ)それから共時性理論(シンクロ・シニティー)などですが、もしこのスレを読んで、解説が必要な人は言ってください。
 一言で言えば「フロイドは個人的無意識を穿り返して、そこがゴミ捨て場であることに気づいたが、ユングは個人を超える心を探求してそこに光もまたある事に気づいたのである。」(BYかんご)という事です。

 

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/02 (Sun) 17:50:28

かんごさん チェ・サンウさん

今年もよろしくお願いします。

チェさんと別のスレで執着について議論していますが、とても初歩的な疑問があります。

お二人の見解を聞かせて下さい。

人間の本性的欲望である 衣食住性 の欲望ですが
人間の生存に関わるこれらの本能的欲望について
仏教はどのように見るのでしょうか?

こような欲望に対する渇望も「執着」するという概念に入るのでしょうか?






Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/03 (Mon) 21:17:15

サライさん

>今年もよろしくお願いします。

こちらこそ、よろしくお願いします。

>チェさんと別のスレで執着について議論していますが、とても初歩的な疑問があります。
お二人の見解を聞かせて下さい。
人間の本性的欲望である 衣食住性 の欲望ですが
人間の生存に関わるこれらの本能的欲望について
仏教はどのように見るのでしょうか?
こような欲望に対する渇望も「執着」するという概念に入るのでしょうか?

衣食住の欲望も執着です。そもそも、仏教では生きること自体罪と説いています。我々は動物の毛皮を剥ぎ取って作った衣服を着ています(衣)。肉など生き物を殺して食べています(食)。この点では肉食動物も罪を犯していることになります。それに、動物が食べるはずの食べ物も搾取しています。家を建てる土地を確保するために動物の住処を奪っています(住)。マンション工事の現場には、もともと動物の巣があったと思います。

仏教では、動物などの生命も人間と同等と説くから、生きること自体罪なのです。アダムとイブが堕落したから、人間が衣食住を求めるようになったわけではないでしょう。ここで、統一原理的な発想をすると、生きることが罪だったら死になさいとなると思います。

でも、仏教では、我々は罪を犯しながら生きているから、そのことを自覚して生きなさいと説いているのです。1人1人が自分は罪人と自覚できれば、「あなたも罪人で私も罪人」という意識が芽生えて、逆に生命等を尊重する気持ちが生まれると思います。

日本の仏教の話になりますが、浄土真宗では、そんな罪人である自分を極楽に行かせてくれる阿弥陀仏に感謝することを教えの主眼に置いています。だから念仏。南無阿弥陀仏。僕は念仏は信じていませんが、念仏にはこのような意があるとお寺の説教で聞いたことがあります。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/04 (Tue) 08:33:01

チェ・サンウさん

>仏教では、動物などの生命も人間と同等と説くから、生きること自体罪なのです

>でも、仏教では、我々は罪を犯しながら生きているから、そのことを自覚して生きなさいと説いているのです。

こういう考えかたって自虐的で戒律てきだなと感じます。
聖書で言えば旧約聖書の中心である十戒的

また、チェさんの言う罪や堕落と言う言葉の概念のくい違いが少し見えてきたように思います。

それともうひとつ、先にも書きましたが「慈悲」についてですが、執着を捨てるということは自己を否定していくことであり、どちらかと言うと消極的生き方のように映ります、しかし、「慈悲」とはキリスト教で言う「愛」に近いと思いますが、こちらはどちらかと言うと能動的で積極的行き方のように映ります。

>日本の仏教の話になりますが、浄土真宗では、そんな罪人である自分を極楽に行かせてくれる阿弥陀仏に感謝することを教えの主眼に置いています。

これは、メシヤによる祝福により天国に行くという
原理的内容と一致していると思います。

しかし原理は罪からの救いと言う概念と愛の完成という両面性をもって天国入籍を主張しています。
「他力+自力」といえばわかりやすいでしょうか。

神様の「愛」と言っても漠然としていますのでその愛が具体的に顕現してくるのが家庭だと説きます。
神の愛を"プリズム"を通過させれば子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛とういうそれぞれの色として見ることができます、これらの愛の和合統一によって元の愛ともいえる、神の愛を体得したものが天国人となるという教えです。

ですから
仏教で言う解脱、悟りは、なんとなくですが理解できます。
でも俗的な言葉で言えば「つらい」宗教だなという印象です。

天理教の「陽気ぐらし」的な神と共にある喜びの共有みたいなものがあまり感じられません。

西洋人に比べてインド人の陽気さはちょっとちがいますが、日本ほど暗くはありません、と言うか生き抜くことに必死な明るさみたいなものがあります。

初期仏教の「明るさ」「よろこび」はどのあたりで見出せると思いますか?教えてください。
原理的アレンジをするには、この辺がとても重要です。

Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/04 (Tue) 15:48:16

  サンウさん サライさん 

 正月早々、風邪を引いたらしく寝込んでいました。1日の内23時間も寝るとは。普段の寝不足を補う生命の働き?
 印象的な夢をたくさん見ました。おかげで夢のメモ帳はもういっぱいです。今年もヨロシクお願いします。

 <人間の本性的欲望である 衣食住性 の欲望ですが
人間の生存に関わるこれらの本能的欲望について
仏教はどのように見るのでしょうか?

こような欲望に対する渇望も「執着」するという概念に入るのでしょうか?>


と言う事ですが、釈迦在世当時は今日のように生物学も発展しておらず、「本能」などと言う言葉自体がなかったので、釈迦が人間が生きるに当たって必要な欲望についてどのような考えをもっていたのかを彼自身の言葉から知る事はできません。
 しかし、釈迦当時、インドにたくさんいた外道思想家達に対する行動から、彼の考え方は明確ですから解説します。
 当時、インドにはエピクロス派のような快楽主義を唱える思想家や苦行主義を唱える思想家達もいました。苦行して解脱を得るのだと彼らは考えていた。
 出家した釈迦はまず苦行主義者の群れに入って苦行にいそしみます。
 その苦行とは、断食、断眠、体を針でさす・・・など様々であったらしい。
 彼はしばらく熱心に苦行を続け、忽然と悟り、苦行を捨てます。その時彼が悟ったのが「中道」でした。
  つまり、快楽に向かう道に生きるでなく、苦行に生きるでなく、その真ん中の道です。その真ん中の道を歩きながら智慧によって悟る――それが彼の示す道でした。

 ところで、断食や断眠などの苦行は我々の本能的な欲望を絶つ事です。だから我々は苦しい。
 それを否定する釈迦は本能的な欲望を否定していないと言えるでしょう。
 つまり生きるのに必要な最低限の欲望には肯定的であったとおもわれます。

 サンウさんの書いた事の中で「生きる事自体が罪」と言うのは少し気にかかるところです。
 原始経典にはその考え方は存在していません。
 すると誰かが付け加えている訳ですが、私の理解している仏の道とはまるで違うので、どうなっているのか?明確にしたいところです。

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/06 (Thu) 22:26:22

サライさん

>>仏教では、動物などの生命も人間と同等と説くから、生きること自体罪なのです
でも、仏教では、我々は罪を犯しながら生きているから、そのことを自覚して生きなさいと説いているのです。
>こういう考えかたって自虐的で戒律てきだなと感じます。
聖書で言えば旧約聖書の中心である十戒的

戒律というのは、やってはいけないことですか?仏教でも、従来の仏教にはありました。これを浄土真宗用語で聖道門といいます。一般的に禅宗と言われている宗派です。それに対して、浄土真宗、浄土宗などの浄土門と呼ばれる宗派には戒律はありません。自分には戒律は守れないと悟った法然、親鸞は、戒律を守れない人向けの宗派を開きました。それが浄土宗、浄土真宗です。初期仏教の戒律は聞いたことがないです。多分無いような気もします。

ここで、「戒律がないから何をやってもいい」と解釈して、好き勝手やりだして殺人などの悪事もやっていいと勘違いしがちです。

人間は誰でも自分を不利な状況には、追い込みたくないです。ここで、何をやってもいいからと言って好き勝手なことをしたら、自分を不利な状況に追い込むことになります。例えば、好き勝手やっていいからと言って盗みや殺人をしたら、逮捕されて自分を追い込むことになります。仏教ではそうならないために悪いことをすることを否定しています。それこそ「良いことをやって悪いことはするな」です。

>それともうひとつ、先にも書きましたが「慈悲」についてですが、執着を捨てるということは自己を否定していくことであり、どちらかと言うと消極的生き方のように映ります、しかし、「慈悲」とはキリスト教で言う「愛」に近いと思いますが、こちらはどちらかと言うと能動的で積極的行き方のように映ります。

確かに仏教では自分という存在は無常だから、執着するに値しないと説きます。だから、「自分には価値がないのか?」ということですね。この点は僕も分かっていませんが、例え仏教がそのように言っていても、自己否定はできません。仏教では、いろいろ言っているけど人間にはできないと説いているのです。例えば、豚や牛などの動物も同じ生命と初期仏教は言っていますが、食べてはいけないとは言ってません。「普段食べてる豚や牛なども同じ生命と心得よ」ということだと思います。

>これは、メシヤによる祝福により天国に行くという
原理的内容と一致していると思います。

原理的内容と一致しても仏とは元々悟った人間のことです。初期仏教の長老も、後の仏教は一神教の神に似た変なものを作りだしたと非難しています。僕は経典を読んだことはありませんが、市販の初期仏教の本を見る限り神的存在の仏は出てきません。

仏教では信仰は不要です。転生輪廻は信じるか信じないの問題ですが、信じない人も実践できるようにお釈迦様は説きました。神様などの実証不可能な存在を信じるものを宗教というなら、仏教は転生輪廻を除いて宗教ではありません。

>しかし原理は罪からの救いと言う概念と愛の完成という両面性をもって天国入籍を主張しています。
「他力+自力」といえばわかりやすいでしょうか。

「自力+他力」は元々ありません。後の仏教は自力修行を重んじていましたが、自力では助からないと悟った親鸞、法然は他力の教えを開いたのです。浄土真宗でも、「自力を捨てて、他力を得る」といいます。自力と他力は相容れ得ないものです。他力とは阿弥陀仏の力で、自力は人間の力のことを言います。浄土真宗親鸞会でも阿弥陀仏の絶対他力を説きながら、自力で頑張ることが推奨されています。この自力がお布施(献金)、破邪顕正(信者集め)と親鸞会をカルト化させているのです。分派の真流一の会も同じです。他力とは阿弥陀仏の力で、そこには何の計らいもなくすべてをお任せすることです。

>神様の「愛」と言っても漠然としていますのでその愛が具体的に顕現してくるのが家庭だと説きます。
神の愛を"プリズム"を通過させれば子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛とういうそれぞれの色として見ることができます、これらの愛の和合統一によって元の愛ともいえる、神の愛を体得したものが天国人となるという教えです。

神様の愛とは確かに漠然としています。子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛を神様の愛と言っても、神様がいるかどうかは分からないのにどうしてそれが神様の愛と言えるのですか?

神様の愛というより、人間がもともと持っている欲望とも取ることができます。そして、子女、兄弟、夫婦、父母とはお互いに執着する対象だから愛せると取ることもできます。

でも、この家庭というところがサライさんが統一原理に惹かれているところですよね。確か、ENOCKさんも家庭というところに惹かれて、家庭から社会、社会から国のようなことを言っていたような気もします。

統一原理を家庭の教えとするなら、仏教は個人の教えです。しかし、良き個人になって初めて平和な家庭、社会、国、世界ができます。この点で初期仏教の教えも平和な家庭、世界につながると思います。

それで、統一原理は平和な家庭を作るためにはどうしたらいいと言っていますか?

>ですから
仏教で言う解脱、悟りは、なんとなくですが理解できます。
でも俗的な言葉で言えば「つらい」宗教だなという印象です。

まず、仏教は捉え方によっては宗教ではありません。自力の宗派、聖道門の教えは確かにつらいですが、自分には修行ができないと悟った親鸞、法然は浄土真宗を開いたのです。初期仏教は、極々当たり前のことを説いていて、僕は特に修行はしていません。

>天理教の「陽気ぐらし」的な神と共にある喜びの共有みたいなものがあまり感じられません。

一神教の神に似た変なものを生み出した宗派のことは分かりませんが、仏教には絶対者としての神様はいません。神様とともにある喜びは信じるか信じないかの問題です。天理教のことは分かりませんが、神様とともにいて喜ぶことが建設的かどうかが問題となります。

>初期仏教の「明るさ」「よろこび」はどのあたりで見出せると思いますか?教えてください。
原理的アレンジをするには、この辺がとても重要です。

確かに人間は「明るさ」、「喜び」を求めています。でも、初期仏教では、「明るさ」、「喜び」とは見出すものではないと思います。ありのままです。「無常」をありのままに観察していれば、自然と、「明るさ」、「喜び」が付いてくると思います。

かんごさん

>正月早々、風邪を引いたらしく寝込んでいました。1日の内23時間も寝るとは。普段の寝不足を補う生命の働き?
印象的な夢をたくさん見ました。おかげで夢のメモ帳はもういっぱいです。今年もヨロシクお願いします。

こちらこそよろしくお願いします。

 <人間の本性的欲望である 衣食住性 の欲望ですが
人間の生存に関わるこれらの本能的欲望について
仏教はどのように見るのでしょうか?
こような欲望に対する渇望も「執着」するという概念に入るのでしょうか?>
と言う事ですが、釈迦在世当時は今日のように生物学も発展しておらず、「本能」などと言う言葉自体がなかったので、釈迦が人間が生きるに当たって必要な欲望についてどのような考えをもっていたのかを彼自身の言葉から知る事はできません。
 しかし、釈迦当時、インドにたくさんいた外道思想家達に対する行動から、彼の考え方は明確ですから解説します。
 当時、インドにはエピクロス派のような快楽主義を唱える思想家や苦行主義を唱える思想家達もいました。苦行して解脱を得るのだと彼らは考えていた。
 出家した釈迦はまず苦行主義者の群れに入って苦行にいそしみます。
 その苦行とは、断食、断眠、体を針でさす・・・など様々であったらしい。
 彼はしばらく熱心に苦行を続け、忽然と悟り、苦行を捨てます。その時彼が悟ったのが「中道」でした。
  つまり、快楽に向かう道に生きるでなく、苦行に生きるでなく、その真ん中の道です。その真ん中の道を歩きながら智慧によって悟る――それが彼の示す道でした。
 ところで、断食や断眠などの苦行は我々の本能的な欲望を絶つ事です。だから我々は苦しい。
 それを否定する釈迦は本能的な欲望を否定していないと言えるでしょう。
 つまり生きるのに必要な最低限の欲望には肯定的であったとおもわれます。

お釈迦様は人間が生きるための最低限の欲望は否定していません。でも、その欲望を満たすために我々は罪を作っていると説いています。

>サンウさんの書いた事の中で「生きる事自体が罪」と言うのは少し気にかかるところです。
原始経典にはその考え方は存在していません。
すると誰かが付け加えている訳ですが、私の理解している仏の道とはまるで違うので、どうなっているのか?明確にしたいところです。

「生きる事自体が罪」とは、原始仏典にはないのですか?でも、我々は生き物を殺して食べたり、生き物の住処を壊して自分の住処を確保したり、生き物から剥ぎ取った毛皮から作った衣服を着ています。これらのことは事実で、動物の生命も人間の生命と同等と考えたら、生きるために罪を犯しているといえます。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/08 (Sat) 07:52:18

チェ・サンウさん

>人間は誰でも自分を不利な状況には、追い込みたくないです。ここで、何をやってもいいからと言って好き勝手なことをしたら、自分を不利な状況に追い込むことになります。

この「不利な状況」の核心部分は人間の「良心の呵責」ではないですか?

外的な法律・罰則は基本的に他人・国家がつくりだしたもので社会的に償えばゼロにもどるけれど、自分の心には傷が残るはずです、それは死ぬまで苦しめ続けるかも知れませんね。

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/08 (Sat) 20:05:34

サライさん

>>人間は誰でも自分を不利な状況には、追い込みたくないです。ここで、何をやってもいいからと言って好き勝手なことをしたら、自分を不利な状況に追い込むことになります。
>この「不利な状況」の核心部分は人間の「良心の呵責」ではないですか?
>外的な法律・罰則は基本的に他人・国家がつくりだしたもので社会的に償えばゼロにもどるけれど、自分の心には傷が残るはずです、それは死ぬまで苦しめ続けるかも知れませんね。

不利な状況には良心の呵責もありますが、核心部分とは言い過ぎのような気もします。不利な状況には何も悪いことはしてないのに陥ることもあります。「良かれと思ってしたことが・・・」。具体例は思い出せませんが、よく聞く話です。

そもそも、良心の呵責とは、人間が自分を善人に見たい本能によって起きると思います。誰でも、人間は元々綺麗な存在で、汚い心など持たない存在と思いたいです。でも実際はそうではない。

良心の呵責とは、自分のことを善人と思っていて、「善人のはずの自分が悪いことをするなんて」という思いから生じると思います。つまり、自分を善人と思いたくて、悪いことをやったことを認めたくない思い。

確か統一原理は、人間は元々善の存在と説くのですよね。でも、性善説、性悪説とあるように元々人間が善か悪かは分かりません。でも、誰でも人間が元々善の存在と思いたいです。僕も自分ほど素直で純粋な人間はいないと思っています。でも、実際はそうではない。

仏教では、「人間は悪」と説いています。しかし、これは元々人間が悪の性悪説を取るのではなく、現状を見て「人間は悪」と説いているのです。

証明不可能な人間の元々の姿(人間が元々善か悪は証明不可能)を説く教えより、人間の現状を説いている教えの方が建設的だと思います。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/09 (Sun) 07:11:31

チェ・サンウ さん

>そもそも、良心の呵責とは、人間が自分を善人に見たい本能によって起きると思います。誰でも、人間は元々綺麗な存在で、汚い心など持たない存在と思いたいです。でも実際はそうではない。

子供はどうでしょうか?
大人になれば不条理な社会でもまれるので、善人ぶることも必要ですが子供はかなり純粋です。


>証明不可能な人間の元々の姿(人間が元々善か悪は証明不可能)を説く教えより、人間の現状を説いている教えの方が建設的だと思います。

私は歴史を動かしてきた原動力は人間の「良心」だと思っています。
法律や倫理道徳など「良心」を基準に規定されたルールだと思います。

イエスが十字架につく時に、裏切った弟子達の良心・・
イエスのみ言葉は理解できなかったとしても、最も清いものが犠牲になっていく姿をみた弟子達の良心が原動力となってその後のキリスト教が発展してきたと思っています。

こういう考え方は建設的でしょうか?

>仏教では、「人間は悪」と説いています。しかし、これは元々人間が悪の性悪説を取るのではなく、現状を見て「人間は悪」と説いているのです。

これは、原理講論も同じ事を言っています。
ただ、悪のままこれからもず~っと続くとしたら、これまでの人間の努力、宗教やあらゆる主義思想は何だったのか?

人間はなぜ、そのようなよりよい世界を望み理想を持つのか?という問題提起をしています。

共産主義は、闘争と革命によって、歴史は流れ、より良い生活を得ることができるいいました。

原理は「復帰」。元に帰る歴史だと説きました。

仏教の歴史観とはどのようなものなのでしょうか?
この辺が理解できれば、人間が生きてきた事実をどのように見るかということなので、だいぶ建設的になるのではないでしょうか?


ところで、お釈迦様の教えが今日まで受け継がれ発展してきた原動力はなんだと思われますか?形は変容してきたといえども、消えずに2000年以上残っていると言うことはすごいと思います。

これは、かんごさんにも聞いてみたいです。

Re: 仏教の真髄・眼目 かんご

2011/01/09 (Sun) 19:23:31

サライさんへ

 <ところで、お釈迦様の教えが今日まで受け継がれ発展してきた原動力はなんだと思われますか?形は変容してきたといえども、消えずに2000年以上残っていると言うことはすごいと思います。

これは、かんごさんにも聞いてみたいです>

 サライさんはなかなか勘のいい人です。


 私にとってその答えは明確です。
 第一に神様の御心を地上に果たすために仏教には重要な役目がありました。
 その役目はまだ終わっていない。ゆえに今日においても残されているのです。

 第二に仏教が必要な人達がいるからです。とりわけ日本と中国には必要でしょう。日本の場合で言えば、この国の福地化過程において、仏教徒はながく主役でした。ゆえに仏教を通して道を歩き始める人も多い。人格を完成していく道のりです。その道のりは誰にとっても山あり、谷ありの道ですが、そのプロセスにおいて仏教の道標が役に立つこともある。釈迦の言葉だけではなく、仏教の祖師達の言葉の一つ一つになつかしさとともに、永遠性の輝きを感じる。それは宝石の輝きのように私を照らし私を導く神の言葉なのである。

 
すなわち、キリスト教の存在理由と同じ理由によって仏教も必要なのです。


 しかし今日その使命は終わりつつある。あと数百年というところか。
 ところで「なぜ、亮進様は仏教に向かわれたのか?」
サライさんの意見は?
 神様はどのように亮進さまを導かれたのか?
その過程を知る事は食口にとっても、そうでない人達にとっても有意義でしょう。韓国は長く儒教の国であり、仏教はかなり排斥されました。ましてや亮進様はアメリカが長くアメリカでは仏教寺院を見つけるのも大変でしょう。
 なぜ仏教?
 私はクリスチャン時代に、ある事を祈り求め、仏典に導かれた時の事を思い出しています。そしてむさぼるように読み込んだ日々の事を・・・・。そんな日々が彼にもあったのか?
 

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/10 (Mon) 08:00:04

かんごさん

亨進様の3冊の本を通して感じていることは、チェ・サンウさんも言われるように、「瞬間」を見つめ「今を生きる」とういう眼目です。

特に「瞑想」の部分は、キリスト教のように対象を立てて祈りもとめるものではなく、去来する様々な「思い」を見抜き悪なるものを捨てていくという感じです。

仏教を考える時いつも思うのは「捨」です
またキリスト教では「求める」です

静と動のような関係があるように思います。

統一教会に足らないものも、この辺にあるようにおもいますし、ここを亨進様も指摘され、「心身統一」の命題を瞑想からアプローチされていると思います。


日本では、江戸時代は中心に朱子学など儒教の精神を取り入れながらも檀家制度により、民衆を管理していった歴史があります、また明治維新以降、廃仏毀釈、国家神道など宗教を政治・国策に利用してきた歴史があります。

私はインドやタイに行って仏教徒の姿を見てきてどうしても日本と異質なのものを感じていました。大乗・小乗様々あるでしょうが根本が違う様な・・・

すなわち、教えの根幹まで「ゆがんでいる」のではないかという懸念があります。

仏教を体系的に勉強したわけでもないので、漠然と、つかみ所がない感覚をもっています。


>その役目はまだ終わっていない。ゆえに今日においても残されているのです。

今、日本の仏教勢力図は良く解りませんが、

南無阿弥陀仏 系
南無妙法蓮華経 系
あと禅宗 系

で、多くを占めるのではないかと思いますが、

その役目を果たす宗派または、仏教の教えのどの部分が役目を果たすようになるのでしょうか?

中東問題を語る時、アブラハムまで戻らないと事の真意がつかめないように、仏教を語るにも帰るべき過去の教えや人物があるように思い「初期仏教」に関心があるのです。

以前、仏教に詳しい教会長が「リュウジュ」とかいう坊さんがカギだと言っていましたがその後、摂理に追われ仏教摂理の話も頓挫しました。この教会長PCがまったくだめで、遠いところに人事異動されたので今は交流がありません。

かんごさんに出会えてよかったです、これからもよろしくお願いします。



亨進様の動機

ご存じないかもしれませんので書いておきます。

2冊目の著書「はげ頭と苺」の冒頭に兄、榮進様の昇華に際しての心情が語られています。一言で言えば「負債」だと思われます。

残念ながら、わたしはこの内容しか分かりません。

Re: 仏教の真髄・眼目 かんご

2011/01/10 (Mon) 16:36:23


     サライさん


 <すなわち、教えの根幹まで「ゆがんでいる」のではないかという懸念があります。>

 それはある意味で正しいのです。原理講論の中に、イスラエル民族がカナン七族の異教の影響を受けた同時性として、ゲルマン民族に広まったキリスト教がゲルマン古代宗教の影響を受けた事が記録されています。

 同様なことは、日本に仏教が入った時にも、言えます。そればかりでなくキリスト教が入った時、そして統一教が入った時にも言えるのです。
 

 仏教が伝来して、広まる過程において、仏教はどのように歪んだのか?
 
 キリスト教が土着のゲルマン異教の影響を受けたように、日本に入った仏教も日本に土着の神道の影響を受けたのでした。
 
 これについて書こうとすると長くなるので詳しくはホームページで・・
 


 <その役目を果たす宗派または、仏教の教えのどの部分が役目を果たすようになるのでしょうか?>

 第二次大戦前中の事です。日本のキリスト教信徒達は神社を参拝しアマテラスの大麻(お札)を拝んでいました。これに抵抗した人々もいたのですがごく少数であり、ほとんどが神々を拝み、あまつさえわざわざ朝鮮におもむき「神社を参拝するように」説得さえしました。韓国キリスト教の主要教派はこれを受け入れたのでした。しかし篤実な信仰者達は抵抗し殉教者の数は約8000人とも言う。

 このように日本キリスト教はその信仰貞操を守ることができず、信仰の条件を立てる事ができなかったので、戦前も1%弱――戦後も1%弱 と教勢が伸びなかったのです。

 これに対して創価学会の牧口常三郎はアマテラスの大麻が配られた時にこれを「邪教」と断じ、拝むどころか焼き捨ててしまった。
 軍部が日本を支配し、全国民が「天皇バンザイ」と叫ぶ中での出来事でした。牧口は投獄され獄中死しますが、その信仰行動を条件として戦後創価学会が爆発的に広まりました。
 つまり「神の義」とされたのです。
 
 すなわち、日本の戦後仏教の中心は創価学会です。
 そして大きな意味があるのは「法華経」です。聖徳太子の時代から今日に至るまで1400年の仏教史の中心になる経典は常に「法華経」でした。法華経は二乗作仏(小乗修行者の成仏)、女人成仏、などを解き明かしている唯一経典であり、救いを自力と他力の両方として捉えている点でも、正しい見解を示しているのです。
  

 <特に「瞑想」の部分は、キリスト教のように対象を立てて祈りもとめるものではなく、去来する様々な「思い」を見抜き悪なるものを捨てていくという感じです。>

 なるほどよく分かります。それは仏教の伝統的瞑想法をとられていると言う事です。

 
 
       サンウさんへ

 、<我々は生き物を殺して食べたり、生き物の住処を壊して自分の住処を確保したり、生き物から剥ぎ取った毛皮から作った衣服を着ています。これらのことは事実で、動物の生命も人間の生命と同等と考えたら、生きるために罪を犯しているといえます。>


 すると例えばライオンが鹿を殺して食べるのも罪ですか?
 鹿が草を食べるのも罪?
 クジラがプランクトンを食べるのも罪ですか?
 これら全ては罪ですか?












Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/10 (Mon) 21:47:29

サライさん

>子供はどうでしょうか?
大人になれば不条理な社会でもまれるので、善人ぶることも必要ですが子供はかなり純粋です。

サライさんの言う通り子供は純粋です。でも、初期仏教では子供は自我に目覚めていないからと説きます。自我、つまり、「自分のもの」という概念がないから執着するものがありません。でも、成長するにつれて、「自分の手」、「自分の足」と、「自分の○○」が増えて執着するものができてきます。執着するものができるから、それを守るために汚いことを考えるようになるのです。

人間は堕落したから自我に目覚めたのでしょうか?堕落したから、「自分の手」、「自分の足」と、「自分の○○」が増えるようになったとは考えにくいです。アダムとエバも自我に目覚めていたから、取って食べるなと言われた禁断の実を取って食べたのだと思います。多分堕落するときに、エバはエバで、「私の天使長」とか「私のアダム」と「私の○○」があったと思います。

>私は歴史を動かしてきた原動力は人間の「良心」だと思っています。
法律や倫理道徳など「良心」を基準に規定されたルールだと思います。

ここでいう「良心」とは善を追求する心ですよね。でも、どうして人間は善を追求するのか?元々善の存在と考えるよりも、法律や倫理道徳などのルールはお互いに自分を不利な状況に追い込まないために規定されたと考えることはできませんか?

>イエスが十字架につく時に、裏切った弟子達の良心・・
イエスのみ言葉は理解できなかったとしても、最も清いものが犠牲になっていく姿をみた弟子達の良心が原動力となってその後のキリスト教が発展してきたと思っています。
こういう考え方は建設的でしょうか?

確かに建設的です。でも、ここも弟子たちは、「師匠であるイエス・キリストを犠牲にした悪者」として、汚名を残したくない思いが原動力になったとは考えられないですか?つまり、自分を、「師匠であるイエス・キリストを犠牲にした悪者」として後世に汚名を残したくない思い。

>これは、原理講論も同じ事を言っています。
ただ、悪のままこれからもず~っと続くとしたら、これまでの人間の努力、宗教やあらゆる主義思想は何だったのか?

確かに人間は少しでも良くなろうと努力して、いろいろな思想、哲学、宗教が生まれてます。でも、逆に悪を無くそうとはしないで、悪なる心といかに付き合っていくかを説いているのが仏教だと思います。悪なる心を持ったまま平和な世界を実現。

お互いに自分は悪なる存在と認めれば、「あの人も悪で自分も悪」というところから悪人同士で平和な世界になると思います。

親鸞も自分を殺そうとした山伏弁円にこのように言っています。口語訳ですが、

>私が弁円殿の立場なら、同じく殺しに行くに違いない。殺すも殺されるも恨むも恨まれるも、ともに仏法を弘める因縁になるのだ

同じ立場だったら、自分も弁円を殺そうとしていたと。このようにして弁円を許しているのです。

文鮮明氏だったら、ただ、「あなたを愛しているから許す」で終っていると思います。

>人間はなぜ、そのようなよりよい世界を望み理想を持つのか?という問題提起をしています。
共産主義は、闘争と革命によって、歴史は流れ、より良い生活を得ることができるいいました。
原理は「復帰」。元に帰る歴史だと説きました。

人間が平和な世界を望むのは、お互いに自分を不利な状況に追い込まないためだと思います。殺し・盗みが犯罪なのもお互いに殺したり盗まれたりしたくないからです。だから、逮捕されたくないから一般の人はやらないのです。チェ・サンウ初期仏教ですが。

>仏教の歴史観とはどのようなものなのでしょうか?
この辺が理解できれば、人間が生きてきた事実をどのように見るかということなので、だいぶ建設的になるのではないでしょうか?

仏教の歴史観は特にないと思います。歴史がどうあれ、我々は既に存在していて悪なる心を持っている。仏教の教えの根幹は、「無常、事実をありのまま、客観的に観察せよ」だと思います。

統一原理の歴史観の中には証明不可能で信じるか信じないかの事項があるのですね。それについては、信じることによって建設的かどうかが問題です。

>ところで、お釈迦様の教えが今日まで受け継がれ発展してきた原動力はなんだと思われますか?形は変容してきたといえども、消えずに2000年以上残っていると言うことはすごいと思います。

チェ・サンウ仏教になりますが、「無常、事実を客観的に観察せよ」というお釈迦様の教えだと思います。でも、人間は実際には、無常、事実を客観的には観察できていません。これができないから平和が乱されているのだと思います。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/10 (Mon) 21:54:29

かんごさん

久保木元会長に代表されるように佼成会からの初期信者が多い教会ですが、本来は学会からの道があったと思われますか?

創価学会で説く法華経と
立正佼成会で説く法華経にはどのような違いがあるのでしょうか?

私は、日本では、大本教が再臨の準備をしていた宗教のように思っていました。

Re: 仏教の真髄・眼目 かんご

2011/01/11 (Tue) 01:45:15

サライさんへ

 <私は、日本では、大本教が再臨の準備をしていた宗教のように思っていました。>

 天理、大本などの教派神道各12派は預言者型宗教として分類できます。大本よりも天理のほうがアベル的であり、さらに天理本体よりも分派した大西愛治郎の”ほんみち”の方がより天の願いを体得していました。


 <久保木元会長に代表されるように佼成会からの初期信者が多い教会ですが、本来は学会からの道があったと思われますか?>

 学会から信者を引き抜くのではなく、学会は学会のまま提携していく道がありました。


 <創価学会で説く法華経と
立正佼成会で説く法華経にはどのような違いがあるのでしょうか?>

 それは『法華経』の違いではなく、その母体となった宗派の違いです。話は日蓮の死の直後にさかのぼります。

 日蓮の死の直後、六老僧の一人、日興は身延を去ります。その契機となったのは身延の信者が三島神社を参拝する事を学頭 日向が認めたからです。日興は日蓮に忠実な男であったので、「この地では日蓮の正義を継承できない」と山を降りたのでした。
 すなわち、この時代にすでに神道の神々を崇拝するか、どうか?と言う論争があったのでした。
 そしてこの日興の門流が日蓮正宗であり、創価学会の所属していたところです。

 ゆえに牧口がアマテラスのお札を燃やしたのも、日蓮正宗の教えに忠実だったからです。


 さて室町時代、吉田兼倶と言う神道家がいました。この男は詐欺師でしたが、世渡りが上手く、それなりに出世しました。この男は「30番神」と言うのを創作して、日蓮宗に売り込んでいきました。それを受け入れた教派は、霊的に狂わされて行ったのです。日向門流です。

 立正佼成会は微妙ですが、中心とは言えないでしょう。

 第二次大戦を含む12年間。日本は右翼と軍部に支配されあらゆる悪が噴出していました。それは神権天皇制国家神道のもたらした弊害であり、日本民族の魂の奥に眠っていた凶暴な邪神バアルの復活でした。ゲルマンの荒ぶる神オーディンの復活に呼応して、そのエバとして国を悪魔が憑依していた。ゆえにこの時代あらゆる不法と暴虐がなされたのでした。
 ゆえにこの時代、悪魔の支配に抵抗できないような教団、教派には用がない。
 浄土宗および真宗には抵抗した人々はいなかった。ラジオ説法で有名な友松円諦は「八紘一宇の理想に照らして破邪せよ」と言う。八紘一宇とはいったい何教の教えだ?仏教にそんな言葉があるか!!
 有名な鈴木大拙は山奥に逃げていた。
 本当に悟りなんか開いていたのか?
なるほど禅の悟りなど、ものの役に立たないのである。


 この時代にどれほど抵抗したかによって、その宗教、宗派の真価が問われるのである。
 創価の創始者牧口の抵抗は特筆に値する。私は評価します。そして神様も評価したがゆえに今日1000万人を超える大教団となっているのです。

 
 


Re: 仏教の真髄・眼目 かんご

2011/01/13 (Thu) 23:46:43

相対できる人がいないかもしれませんが どんどん進めて行きます。
 
 サンウさんの「無常中心主義」は「サンウ仏教」と言うよりも「サンウ思想」と言うべきでしょう。
 仏教における「諸行無常」は「諸法無我」「涅槃寂静」とワンセットであり、無常は無我のための論理展開です。ちょっとやってみます。
     ―――
 あらゆる存在、事象はそれが単独では存在せず、原因と縁が有って初めて成り立っている。(因縁生起)
 だから永遠不変に存在するものはありえない。諸行は無常であり変化する。(諸行無常)
 にもかかわらず我々は「これは自分の所有だ」「これは自分の自由にできる」と思いこんで執着する。そこに苦しみが生まれる。しかし「我が物」「自分の所有」だと言うものは存在しない。(諸法無我)
 金、家、家族、あるいは自分の体、自分の心さえ自分の自由にはならない。(一切皆苦、苦はサンスクリットのドゥッカ=思い通り、望み通りにならない事)
 それゆえ4苦8苦し、煩悩にまみれて人は生きているのである。
 しかし煩悩の火を消し悟りの境地に至ることができる。(涅槃寂静)
 そのためには8正道を実践せよ。

 この一連の論理を3宝印と呼びます。
 つまり「無常」は8正道を実践させるための論理ツールであるといえます。

 私が仏教徒ではないのは、この3宝印をそれほど重視していないからです。すでに述べたように「善を為せ、悪をなすな」こそ仏教の真髄・眼目であると思います。3宝印から大乗仏教の「空」の思想が生まれますが、それよりも大乗仏教を高めたのは「菩薩道」の発見であったと見なしています。
 「菩薩道」という生き方の発見が大乗の大乗たるゆえんであり、価値である。
 菩薩道とは衆生済度のために自己を献身する道です。

 「民を苦しめたくない」と自らの命を捧げた山背大兄王子。
 土木ボランティアに生きた行基菩薩。
 失明すると言う苦難にたえ日本に戒壇を持ってきてくれた鑑真。

 皆、この菩薩道と言う生き方に準じた生き方であるがゆえに、その人生を顧みたとき感動してしまう。

 日蓮が苦しい迫害に耐えた時、 坂本竜馬が「大政奉還」のために命を捨てた時、 賀川豊彦が最後に残った着物さえ貧民窟にあえぐ人に分けあたえようとしたとき、その全てに菩薩の輝きが見てとれる。

 それは統一教流に言えば「為に生きる」と言う生き方です。
 その生き方を発見した事に大乗仏教最大の功績がある。

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/16 (Sun) 00:56:07

かんごさん

>すると例えばライオンが鹿を殺して食べるのも罪ですか?
鹿が草を食べるのも罪?
クジラがプランクトンを食べるのも罪ですか?
これら全ては罪ですか?

僕は罪と認識しています。そして、仏教は、「我々は常に罪を犯して生きていることを自覚しなさい」と説いていると認識しています。

>しかし煩悩の火を消し悟りの境地に至ることができる。(涅槃寂静)
そのためには8正道を実践せよ。

八正道はよく分かっていませんが、人間に実践できるのですか?

>すでに述べたように「善を為せ、悪をなすな」こそ仏教の真髄・眼目であると思います。3宝印から大乗仏教の「空」の思想が生まれますが、それよりも大乗仏教を高めたのは「菩薩道」の発見であったと見なしています。

「善を為せ、悪をなすな」は根幹になってくると思いますが、人間はそもそも自分勝手な生き物です。悪をなすと悪が返ってきます。善をなすと善が返ってきます。自分にとって都合の悪い状態にならないようにするには、「善を為せ、悪をなすな」です。「善を為せ、悪をなすな」にはもっと深く根幹になるものがあるような気がします。

Re: 仏教の真髄・眼目 かんご

2011/01/16 (Sun) 01:41:07

サンウさんへ

  <八正道はよく分かっていませんが、人間に実践できるのですか?>

 サンウさんの言う「初期仏教」はこれが基本のはずです。私はその本を読んだ事もありませんが・・・。

 ちと聞きたいのですが、そのスリランカの人は「無常を悟れーそれが全てである」「生まれた事自体が罪」と教えているのですか?

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/16 (Sun) 21:16:09

かんごさん

>ちと聞きたいのですが、そのスリランカの人は「無常を悟れーそれが全てである」「生まれた事自体が罪」と教えているのですか?

そのように教えているように認識しました。チェ・サンウ解釈ですが。「無常を悟れ」は言葉にしてしまえば単純ですが、我々はこれができてません。何かに執着して、いつまでもあると思う。でも、実際はそんなことは無い。そこから、それがすべてのように思いました。

「生まれた事自体が罪」は、我々は常に自分の利益ばかりを考えて他人を蹴落とすことばかり考えています。それに、肉魚も食べます。ここから、生きること自体罪と説いていると考えました。でも、「罪だから生きるのはやめろ」ではなく、「罪を犯しながら生きていることを自覚せよ」という教えだと思います。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/16 (Sun) 22:25:20

かんごさん

>創価の創始者牧口の抵抗は特筆に値する。私は評価します。そして神様も評価したがゆえに今日1000万人を超える大教団となっているのです


これまで、私が接した学会人はとても世俗化していて「聖」なるものを感じられませんでした。
統一思想院の竹内先生などは例外中の例外の学会人だったのではないかと思っています。

このような学会とUCが手を組む可能性があると考えられますか?

Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/17 (Mon) 01:48:41

      サンウさんへ

 、<でも、「罪だから生きるのはやめろ」ではなく、「罪を犯しながら生きていることを自覚せよ」という教えだと思います。 >

 罪と言う言葉に対する概念の違いを感じました。

 たとえば殺人を犯せば人は罪の意識を感じます。もちろん罪人はその罪の意識と良心を抑圧していますから、その時は罪の意識を感じません。
 京都のある警察署の話なのですが、その警察署では、夕方に取り調べをすると、自白を得る事ができると言います。留置所に泊めていた囚人に調書を取る。
 その時、京都の町の隅々から、お寺の鐘の音が響き渡る。すると罪を犯した人はその鐘の響きが心に響き・・・そして・・・自白するそうです。

 つまりこの場合の罪とは「「良心の呵責を感じる事である」と定義できるでしょう。

 私達はしばしば自分の良心に封をしてそれを感じなくしているのです。

 私が罪を犯してもその時は何も感じません。
 例えば、ネットで性的なビデオに思わず眼が行ってしまい、最後まで見てしまったとしましょう。
 その時は何も感じません。
 
 しかし、ある時、何かがキッカケで、罪が心の中で騒ぎ立て、良心の呵責を激しく感じます。
 私は思わず「ああ・・・神様どうか、私の罪をお許しください」と泣きくずれるのです。私は身もだえして、罪を犯してしまう自分を憎み、・・・私はその時『聖書』の中のパウロの言葉に共鳴するのです。「・・・私はなんと言うミジメな者なのでしょう。」とパウロは述べた。肉の想いが私を支配しており、肉の購(あがな)われる事を私自身が望んでいるのです。私はミジメな肉塊です。神を信ずる私は一体どこにいるのか?ここにいるのは、罪人です。罪人がここにいて「神様を信じる」と述べたとしても、その言葉はなんと虚しい言葉でしょうか?「・・・いっさいが空しい」と述べた箴言の作者のように、私は空しく神を崇めている。聖なる道を生きているはずの私はむしろ罪に生きている事を知らしめられる事になるのです。
 だからこそ再臨主による「肉の購い」は救いなのです。

 こうした罪観は実際に自分が行った事に対するものです。私は私が生きるために肉を食べたとしても何の罪も感じません。どれほど祇園精舎の鐘がなろうと私はそこに罪を感じません。つまりサンウさんの言う罪と私達が感じ、考える罪は違う概念であると思います。
 サンウさんはどう思うのですか?そして自説の罪の概念を明確に定義しておいてくだる事をお願いします。

Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/17 (Mon) 02:51:34

サライさんへ

 <これまで、私が接した学会人はとても世俗化していて「聖」なるものを感じられませんでした。
統一思想院の竹内先生などは例外中の例外の学会人だったのではないかと思っています。

このような学会とUCが手を組む可能性があると考えられますか?>

 私の生まれた広島の一都市には、学会のシャクフクが盛んだったらしく、学会員がたくさんいました。高校時代の私の親友の中にも2世が2人いました。
 彼らとともに青春の一時期を過ごした私は彼らが何に悩み何を克服したか?それなりに知っています。その世界は統一二世の世界とそんなには変わらないと思います。
 最近、引っ越しした私の隣にすむ学生は学会員で、しょっ中、勤行の声が聞こえてきます。彼は、自分自身に、そして人生に悩みが押し寄せる青春を生きており、その度に「南無妙法蓮華経」と唱えるのです。
 私は食口も彼らも共にいとおしく感じます。
そして「どうか、彼らがその試練を乗り越えられますように」と祈らざるを得ないのです。


 創価学会に神様が与えた使命は「不開門」(あかずのもん)を開ける事です。
  
 しかしこれだけでは理解できないでしょう。
 しかしそれを理解するには日本における神様の摂理を段階的に理解する必要があります。

 私のホーム・ページがスタートしました。
 まだ第一章しか載せていません。
 しかし来月には第二章が入ります。実のところ、パソコンをいじくって半年足らずの私はURAの貼り方も知りません。無知なのです。しかしこの無知はすぐにでも克服してここに貼り付けようと思います
 日蓮宗の存在理由と使命については、第3章及び第4章で
詳しく述べるでしょう。

 ところでENOCKさんところの掲示板に「内村鑑三」について述べたカキコをしておきましたが読まれましたか?
 その内村は日蓮を「預言者」と評価しています。
 私は「預言者以上だ」と述べます。
 ドキドキしませんか?

URLはこれです。

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Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/19 (Wed) 22:44:09

かんご さん

HPおもしろそうですね
期待しています。

Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/20 (Thu) 06:21:08

サライさんへ
 
 日本という国を、そして民族をみたときに非常に古い罪があるのだと想定すると、説明できる事がたくさんあるのです。
 日本において氏族メシアがまるですすまないのもそのためです。「くもの巣にからまっていくような感覚」とはそういう事なのです。
 
 感想をお待ちしてます。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/20 (Thu) 07:52:42

かんご さん

一つ線引きしてもらいたいのが

いつから「日本民族」もしくは「日本国」と言えるのか?
と言う問題です。

または、

>非常に古い罪

の出発点はどのあたりからなのかという問題が出てきます。


卑弥呼、邪馬台国論争がありますが
天の摂理という観点から見た場合の基準ができればありがたいです。

チュモンが話題になったころ
お父様が、天照はソソノだと言われたと聞きました。

また、つい最近たけしの番組で聖徳太子は藤原不比等の捏造だ、日本書紀もフィクションで韓国や中国の文献の焼き直しと言う教授の話もありました。

諸説紛々私のような凡人にはどのような「観」でみるかがもっとも大切に思えます。

復帰原理はまさに、ハッキリした「歴史観」を示してくれました。
日本歴史も解析よろしくお願いします。


以前、倉原講師が言ってましたが、日本が現代の摂理国家になる分岐点は「イエスの十字架」からだと。

本来摂理は東回りに行くべきだったために、神は仏教・儒教を準備していたがそれが逆に西回りになったと・・・
(私はイエスを仕留めたサタンが準備されていた仏教・儒教などの思想宗教を捻じ曲げ、為政者の支配の道具にしていった歴史ではないかと漠然と考えています)

個人的には、イエス時代の背景、世界情勢から今日を見通して、日本の国の功罪を見て行くのが一つの道筋だと思っています。

予定論にあるように摂理は相対的であり、立たされた中心人物と、その責任分担がどのように果たされてきたか?という観点があれば解りやすいと思います。



Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/20 (Thu) 16:30:48

サライさんへ


 <お父様が、天照はソソノだと言われたと聞きました。>

 この問題も重要です。
 ところで、サライさんに聞きたいのですが、「文先生は全知でしょうか?」

    「文先生は全知か?」

 どう思いますか?

 あるいは

     「イエスは地球が丸い事を知っていたか?」
     「イエスは宇宙が約150億年前に生まれた事を知っていたか?」

  つまりは「メシアは全知か?」と言う疑問です。

  どう思いますか?
  
 この疑問は信仰的、神学的な疑問であると共に、私達の行動に直接影響をもたらすかも知れません。
 
 


 <一つ線引きしてもらいたいのがいつから「日本民族」もしくは「日本国」と言えるのか?

言う問題です。

または、

>非常に古い罪

 の出発点はどのあたりからなのかという問題が出てきます。>

 日本国と言えるのは「日出るところの天子・・・」と書き送り、外交しはじめた6世紀から7世紀。つまり聖徳太子の時代からです。この時代から歴史が記録され始めました。

 しかし私達の先祖がそれ以前から居た事は明らかです。
 それがどこにつながっているのかが、私にとっては問題です。そのつながる先に「大きな罪」があったということです。その罪はBC900年頃から200年余りの間に犯された罪です。キリスト教では「ヤラベアムの罪」と言います。


 <最近たけしの番組で聖徳太子は藤原不比等の捏造だ、日本書紀もフィクションで韓国や中国の文献の焼き直しと言う教授の話もありました。>

 「日本書紀は信用できない。聖徳太子は捏造の人物だ」と言う説は江戸時代の国学者、(天皇崇拝の)儒家の言っていた事です。

 まず林羅山から「太子攻撃」、「仏教攻撃」「日本書記攻撃」が始まり(『本朝神社考』)、次に『三輪物語』の中で熊沢蕃山は「日の本をかようにあしくなりたるも、皆上宮太子の愚よりはしまれり」と書いて聖徳太子を攻撃した。荻生徂徠が口汚く、太子を非難した後、それに影響された山片番桃は「仏教を怨敵として排斥せよ」と述べた。
 さらに平田篤胤は『出定笑後』は「日本書紀は信用できない、太子は捏造である」と述べました。

 この平田篤胤の門下が明治政府の宗教政策を担当したので、彼らがまずやったのが廃仏でした。そして大日本帝国憲法の制定にかかわり、国家神道の流れを造りました。

 こうした歴史があるので、今日でも国学系の学者の中には「聖徳太子は捏造である。日本書紀は創作だ」と述べ、あるいは本を書く人もいます。
 しかしこれには反論も多いのです。私も反論します。

 

 サライさん、歴史というものはどんな書物もウソである可能性を含んでいます。
 戦前日本の皇道神国史観が一つの例でしょう。
 ウソがいっぱいでした。

 私達は全てを無条件に信用する訳には行かない。
しかし神様を信用しています。神様は全ての真実をご存知である。
 ですから、私の真偽の見分け方は、方式としては簡単です。
 まず、疑問を把握するために考え、調べる。
 疑問を把握したら、祈る。
「神様、これはどういう事ですか?ここに書いてある事は真実ですか?」と。
 (そして昔はテーマによって瞑想したりしましたが、最近は必要がなくなった。 瞑想はおおむね、心を一つに集中させる事です。心を一点に集中させて、一点突破させる)
 
 それから神様の導きがあり、真実に到達して行きます。

 私が「文先生は本物の再臨主である」と言う答えに到達するのには12年もかかりました。その間、ヨガや気功に通じ、ユングを学び、仏教に出会い、いろんなところに導かれるままおもむき、5万冊を超える本を読み、・・・とそんな感じで真実を求める。そして到達するのです。

 まず、考える。そして調べる。祈る。心が集中する。はっと分かる。と言う繰り返しです。
 そうやって真実と非真実を見極めていく。その全過程において神様が導いてくださる事が分かるようになります。それは神様と人との濃厚な関係に至る、一問一答の対話の生活なのです。
 そんな風にして真実と非真実を見分けて行かれる事をお勧めします。もちろん、私のホームページに書くいろんなこと鵜呑みにするのではなく、神様の御前に真実か非真実かを祈り求め見分けていけばよいのです。

 
 <復帰原理はまさに、ハッキリした「歴史観」を示してくれました。
日本歴史も解析よろしくお願いします。>

 了解しました。

 講論に述べられる歴史の法則は全て適用されています。


 

 <以前、倉原講師が言ってましたが、日本が現代の摂理国家になる分岐点は「イエスの十字架」からだと。>

 倉原講師の説を信用しておりません。しかしイエスの来臨の恵沢は世界に影響を与えましたから、私達の先祖に対する摂理もそこから始まったはずです。

 
 <予定論にあるように摂理は相対的であり、立たされた中心人物と、その責任分担がどのように果たされてきたか?という観点があれば解りやすいと思います。>

 その通りです。しかし全てを書こうなどとすると、ものすごく膨大になってしまうので、ある程度読者の裁量にまかせなければなりません。そこが難しいところです。
 

 

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/20 (Thu) 21:17:07

かんごさん

>罪と言う言葉に対する概念の違いを感じました。
 たとえば殺人を犯せば人は罪の意識を感じます。もちろん罪人はその罪の意識と良心を抑圧していますから、その時は罪の意識を感じません。
 京都のある警察署の話なのですが、その警察署では、夕方に取り調べをすると、自白を得る事ができると言います。留置所に泊めていた囚人に調書を取る。
 その時、京都の町の隅々から、お寺の鐘の音が響き渡る。すると罪を犯した人はその鐘の響きが心に響き・・・そして・・・自白するそうです。
つまりこの場合の罪とは「「良心の呵責を感じる事である」と定義できるでしょう。
私達はしばしば自分の良心に封をしてそれを感じなくしているのです。

そうですね。後のかんごさんのコメントを読んでいて、かんごさんの定義する罪とは主観のような気がしてきました。つまり、自分が罪と思ったものが罪になると。これに対して僕の定義する罪とは客観的です。

>私が罪を犯してもその時は何も感じません。
例えば、ネットで性的なビデオに思わず眼が行ってしまい、最後まで見てしまったとしましょう。
その時は何も感じません。
>しかし、ある時、何かがキッカケで、罪が心の中で騒ぎ立て、良心の呵責を激しく感じます。
私は思わず「ああ・・・神様どうか、私の罪をお許しください」と泣きくずれるのです。私は身もだえして、罪を犯してしまう自分を憎み、・・・私はその時『聖書』の中のパウロの言葉に共鳴するのです。「・・・私はなんと言うミジメな者なのでしょう。」とパウロは述べた。肉の想いが私を支配しており、肉の購(あがな)われる事を私自身が望んでいるのです。私はミジメな肉塊です。神を信ずる私は一体どこにいるのか?ここにいるのは、罪人です。罪人がここにいて「神様を信じる」と述べたとしても、その言葉はなんと虚しい言葉でしょうか?「・・・いっさいが空しい」と述べた箴言の作者のように、私は空しく神を崇めている。聖なる道を生きているはずの私はむしろ罪に生きている事を知らしめられる事になるのです。
だからこそ再臨主による「肉の購い」は救いなのです。

どのような行為が罪であるかを認識していれば、それこそ、ある時あるきっかけで良心の呵責を感じると思います。例えば、先ほどの性的なビデオ。これを見ることを罪とインプットされてなければどれだけ見ても罪と感じないし、罪とインプットされていれば、見ると良心の呵責を感じると思います。ところで、性的なビデオを見ることがどうして罪なのですか?

>こうした罪観は実際に自分が行った事に対するものです。私は私が生きるために肉を食べたとしても何の罪も感じません。どれほど祇園精舎の鐘がなろうと私はそこに罪を感じません。つまりサンウさんの言う罪と私達が感じ、考える罪は違う概念であると思います。
サンウさんはどう思うのですか?そして自説の罪の概念を明確に定義しておいてくだる事をお願いします。

僕の罪の定義は、まず客観的事実に基づいています。肉や魚も生命であることを考えてください。人間の生命が牛や豚の生命より偉いという根拠はありません。あると主張する人は傲慢な人です。牛や豚が生命であることは客観的な事実です。しかし、僕も肉や魚を食べても罪も何も感じません。これだけ僕は傲慢なのです。客観的に考えると牛や豚も生命だから自分では自覚なくても肉を食べることは罪になります。

僕の罪の定義ですね。今まで漠然と罪という言葉を使ってきて特に考えたことなかったけど、僕の罪の定義は、「生命に危害を加えること」です。生命には自分も入っています。自殺は自分の生命に危害を加えることだから罪です。肉や魚を食べることも、豚や牛、魚の生命を脅かすことだから罪です。でも、我々は罪を罪と思っていません。

Re: 仏教の真髄・眼目 - サライ

2011/01/20 (Thu) 23:05:59

かんごさん


>「文先生は全知か?」

感じる、感性としては全知だと思いますが

個々の事象については、知ろうとすれば知ることができる方であろうと思います。

時間空間の制約の中で人間がもつ知識として全てを知っているということはないと思います。



>神様の御前に真実か非真実かを祈り求め見分けていけばよいのです。

たとえば同じ事柄に対して5年前と今とでは、その祈り求めるプロセスは同じであっても、確信の部分が違ってくることがありませんか?

私は、一時的に、これだ!と確信に至った喜びに浸りますが、時間がたてばまだ違う回答が残されているのではないか?と懐疑的になったりもします。

神様はその時々の状況にふさわしい悟りを与えてくださっていると感じます。啓示の漸進性というのが講論にもありますが、結局これだ!という到達点はないようにも思います。

例えば職人が業を極めて一つの作品に挑みますが、決して100%の満足に至らないというのに似ています。


亨進様の「天和堂」に

『悟りと完全とは、絶え間ない努力と重生の過程にすぎない・・』
というくだりがあります

この言葉は私に多くの示唆を与えてくれています。




Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/21 (Fri) 00:31:45

サンウさんへ

 <僕の罪の定義は、まず客観的事実に基づいています。肉や魚も生命であることを考えてください。人間の生命が牛や豚の生命より偉いという根拠はありません。あると主張する人は傲慢な人です。牛や豚が生命であることは客観的な事実です。しかし、僕も肉や魚を食べても罪も何も感じません。これだけ僕は傲慢なのです。客観的に考えると牛や豚も生命だから自分では自覚なくても肉を食べることは罪になります。

僕の罪の定義ですね。今まで漠然と罪という言葉を使ってきて特に考えたことなかったけど、僕の罪の定義は、「生命に危害を加えること」です。生命には自分も入っています。自殺は自分の生命に危害を加えることだから罪です。肉や魚を食べることも、豚や牛、魚の生命を脅かすことだから罪です。でも、我々は罪を罪と思っていません。>

 罪と言う言葉自体が「客観的なもの」ではなく「主観的なもの」ではないでしょうか?

 「罪を感じる 」のです。
 サンウさん自身が「僕も肉や魚を食べても罪も何も感じません。」と述べて罪が感じられるものである事を明らかにしています。
 感じる と言う心は主観心です。

 属する文明の違いによって、良心の働き方は多少変化しますが、それは本質的相違ではなく、良心自体はあらゆる時代のあらゆる人々に強力に作用しており、私達がその良心に反すると不安や罪の意識をもたらし、正道に戻すように働いています。罪を感じる-その感じる心・・・それはとても大切な心です。

 そこでサンウさんに尋ねます。
 「美」は主観ですか?客観ですか?

Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/21 (Fri) 02:43:42

サライさんへ

 
  <たとえば同じ事柄に対して5年前と今とでは、その祈り求めるプロセスは同じであっても、確信の部分が違ってくることがありませんか?>

 あります。
 ただし前のものを否定すると言うよりも、より高次になる事により、理解の質が変わって行きます。

 <私は、一時的に、これだ!と確信に至った喜びに浸りますが、時間がたてばまだ違う回答が残されているのではないか?と懐疑的になったりもします。>

 成長している人間は、みな「自分が前進しているのではなく後退しているのではないか」と思うものです。
 懸命に道を探していて、それなのに後退しているような感じがしたら、それはちゃんと前に進んでいるのです。

 ある日、突然ジャンプします。


 <神様はその時々の状況にふさわしい悟りを与えてくださっていると感じます。啓示の漸進性というのが講論にもありますが、結局これだ!という到達点はないようにも思います。>

 
 小さな悟りも重要です。その積み重ねが大悟につながるからです。しかし大きな悟りは、その瞬間、自分の悟り得たその事が正しいだけではなく世界を変える事を直感します。この事を正しく理解するためには「思い込み」と「直感」の違いを定義しなければならないかも知れませんし、もしちゃんと書こうと思ったら分厚い本になってしまうでしょう。
 けれども大きな悟りがあるのです。
 悩みに悩み、考えに考え、自分の命や霊の命さえ賭してまで、神に問いかける。
 祈りの声は涙にかすれ、氣が狂いそうになるほどの悩みのなかで、(心理学徒として私はのべるが、それは事実として狂人と共有する心の裏道をたどるのである)その時が訪れる。
 それを何と表現しよう。
 パンと風船が弾ける瞬間。
 体を抜け出した霊がどこかに行き着き、戻ってくる。
 その瞬間。それまで別々だったものがつながり、そのすべてが見える。体の中を喜びのエネルギーが湧きおこる。腹の奥。臍下丹田から湧き起こる喜びは腕に頭に駆け巡り、持病は治癒してしまう。体が自然に踊りを踊る・・・・

 ・・・到達したのです。



私のホームページに「第2章 バアル崇拝と神道」が入りました。
 このあたりで、背後の先祖が反発する人もいるでしょう。
 統一教の中では約3分の1が反発し、内心で憎しみを感じるはずです。
 神道霊界は陰湿なやり方を好む。ゆえに正面きって反発する人は少ない。むしろ表現してくれた方がいいのですが。









 

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/22 (Sat) 22:53:02

かんごさん

>「罪を感じる 」のです。
サンウさん自身が「僕も肉や魚を食べても罪も何も感じません。」と述べて罪が感じられるものである事を明らかにしています。
感じる と言う心は主観心です。

そうですね。感じる心は主観です。でも、我々は罪を罪と思わない生き物です。肉や魚を食べて罪を感じなくても、客観的に肉魚は生命です。だから、罪を感じなくても罪を犯しているのです。

>属する文明の違いによって、良心の働き方は多少変化しますが、それは本質的相違ではなく、良心自体はあらゆる時代のあらゆる人々に強力に作用しており、私達がその良心に反すると不安や罪の意識をもたらし、正道に戻すように働いています。罪を感じる-その感じる心・・・それはとても大切な心です。

不安や罪の意識は欲からです。不安になるのも、「見つからないかなあ?」という自己防衛の気持ちからだと思います。

>そこでサンウさんに尋ねます。
「美」は主観ですか?客観ですか?

両方あると思います。誰が見ても美しい場合は客観性があるし、自分だけが美しく感じる場合は主観です。

Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/23 (Sun) 00:49:44

サンウさんへ

 
 <両方あると思います。誰が見ても美しい場合は客観性があるし、自分だけが美しく感じる場合は主観です。>

 この場合サンウさんの言う「客観的」とは「大多数の人が認める」と言う意味ですか?

 

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/23 (Sun) 22:04:15

かんごさん

>この場合サンウさんの言う「客観的」とは「大多数の人が認める」と言う意味ですか?

大多数というか誰でも認めるという意味です。

Re: 仏教の真髄・眼目 - かんご

2011/01/23 (Sun) 23:55:55


    サンウさんへ


 <大多数というか誰でも認めるという意味です。 >



 アメリカの南部には現代でも「地球は丸い」と言う事を信じる事を拒否して100人あまりの集団でくらしている人達がいるそうです。
 ・・・・とすれば、「地球は丸い」と言うテーゼは[誰もが認めている]とは言えず、ゆえに「客観的ではない」と言う事になるのでしょうか?

 私の考える「客観性」とサンウさんの考える「客観性」はまるで違うので、これを聞きます。

Re: 仏教の真髄・眼目 - チェ・サンウ

2011/01/25 (Tue) 21:53:14

かんごさん

>アメリカの南部には現代でも「地球は丸い」と言う事を信じる事を拒否して100人あまりの集団でくらしている人達がいるそうです。
 ・・・・とすれば、「地球は丸い」と言うテーゼは[誰もが認めている]とは言えず、ゆえに「客観的ではない」と言う事になるのでしょうか?

そうですね。宇宙開発の技術が無かった時代は、地球の形をあれこれと想像したものでした。地球が丸いと言っても信じる人と信じない人に分かれました。アメリカ南部にそのような技術がなければ、客観的とは言えません。

しかし、技術が発達して誰でも納得する形で地球が丸いことを示せれば、それは客観的です。

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